短編小説【鉄塔の下で】(4316文字 無料)

 公園の近くには大きな川が流れていた。
 正確には辺りの田畑(たはた)に水を運ぶための用水路で、何か名前があったはずだけど、もう忘れてしまった。
 橋を越えると見渡す限りに田圃が広がって、ずっと向こうには隣町の神社の鳥居が小さく見えていた。年に一度、お祭りがある時に連れていってもらえるのを楽しみにしていたものだ。
 
 水路の分岐している小さな溜め池では、近所の男の子達がよくザリガニやフナをとっていた。その辺りは彼等のエリアで、わたしはあまり近づかないようにしていた。川に沿って、流れとは逆の方へ二十分ぐらい歩く。途中で国道を越えると、田と畑と農家だけの景色になり、あまり人の姿をみかけなくなる。土手の斜面を下って、田の間に伸びる畦道(あぜみち)へ。狭い道をまっすぐ行けば神社のある隣町までたどり着くのだけど、わたしはいつも途中で左へ曲がった。
 田に囲まれた中で、そこだけ固い地面になっているところがあった。
 砂利で埋め尽くされた敷地の中心には大きな大きな鉄塔が建っていて、背の高い金網に周りを囲われ『高圧線注意』と書かれた物々しい看板が下がっている。
 いかにも危険そうな雰囲気のせいか、子供達もあまり近寄らない場所だった。
 だから、わたしはそこにいることができたのだ。
 鍵のかかった傾きかけの小屋が金網の外に建っていた。中には入れなかったけど、その後ろには雑草ばかりが勢いよく生えている場所があって、そこがわたしの隠れ家だった。
 背の高い草が生い茂る中へ入っていくと、あっという間に周りが見えなくなる。
 何も見えなくなるということは誰にも見られていないということだ。それを知っていたからとても安心できた。
 座り込んで鉄塔を見上げ、青い空を背景に三角がいくつも並ぶ複雑な構造に見とれていた。あるいは空を横切る電線の行方を追ってその先にある山のことを思った。
 
 そこでの話し相手はリクちゃんだった。
「ねえ、ほらほら、ここからだと電線が五本にみえるでしょ。音楽みたい。リクちゃん五線譜って知ってる? あのね、音符が並んでね、歌になるの。たくさんの音符が並ぶとどんな歌も楽譜になるんだって。鼻歌だってそうだよ。ちょうどいい大きさの雲が来ないかな。そしたらリクちゃんも音符がどんなふうかわかるのにね」
 学校であったことやわたしの考えていることを、リクちゃんはいつも聞いてくれた。他に仲のよい友達はいなかった。
「ねえ、山奥に手が一本で足が一本の妖怪がいるんだって。ひでりがみっていうの。リクちゃん知ってる? すごく速く走ることができるんだって。一本足なのにすごいでしょ。あのね、わたし電線の上を走れたら便利だなあって思ってたんだ。ほら、あっちの山からこっちの山まであっという間でしょ。ね? 谷も川も関係ないし。あんな遠くからでもこの鉄塔まで楽に来れるよ。ひでりがみなら電線を走れるかなあ……でも考えてみたら恐いね。すごい高い場所だからきっと風もすごいよ。落っこちちゃったら大変だね」
 
 リクちゃんは決してしゃべらなかった。だけど、リクちゃんが言いたいことはなんだってわかった。
「この前ここから帰ったときお母さんに怒られちゃった。あのね、ほら、なんかちくちくするやつあるでしょ。あれがね、セーターの背中にたくさんついてたの。あれなんだろね。えっ? タネなの? ふーん、そうやって違う場所に運んでもらうんだ。へえ。それってなんかうまいやり方だね。すごい。リクちゃん物知りだ」
 
 会えるのは三回に一回ぐらいだったろうか。リクちゃんのために何か持っていっても出会えず無駄になることもあった。そんなときはがっかりだけど、それでもわたしは一人でぼんやり鉄塔と空を見て時間をつぶした。
 会えないことがあるから、会えたときはとても嬉しい。
「ねえねえ、給食のパン残しちゃった。今日ね、食べてる途中で牛乳瓶倒しちゃったの。隣の馬鹿な男の子がふざけてて椅子ごとひっくり返ってわたしの机を掴んだから。牛乳がその子の頭にかかって面白かったけど……リクちゃん、パン食べる? 飲み物ないけど」
 
 いつも草むらの中でしか見かけなかったので、あるとき、小屋の後ろにリクちゃんが佇んでいて驚いた。足下に小さな塚のようなものが作られていた。
「これ自分で作ったの? わたしに見せようってここで待ってたんだ。じゃあ今日は山を作って遊ぼうか。え、これお墓なの? 誰の? 電線からここに落ちたひでりがみ? ああ、それで死んじゃったんだ。ふーん……リクちゃんってもしかして残酷? え? 優しさなんだ。そう言えばそうだね。じゃあ手をあわせて拝んでおこうか」
 
 鉄塔へ向かう途中で出会う男の子達はときおりわたしをからかった。
 いつも無言で無視していたので、ちょっかいを出す標的としてはあまり面白くなかっただろう。そうなるように努めていた。一度、石を投げられたこともあってさすがに怖かったけど、それは向こうの一番威張っている奴が止めさせた。
「リクちゃん、今日ね、ここに来る途中で『いいものやる』って言われたの。どうせわたしをからかってるだけなんだけど。でね、なにくれたと思う? これ。死んだザリガニ。わたしが怖がると思ってたんだね。しゃくだから平気な顔してそのままもらってきたの。うわー、手が臭くなっちゃった。あっ、リクちゃん食べちゃだめだよ。それからね、河原で遊んでる男の子に関わっちゃだめ。ろくなことないから」
 
 中学生になるとき、わたしは遠く離れた町へと引っ越すことになった。
 引っ越しが決まってから何度か鉄塔の下へ行ったけど、リクちゃんには会えなかった。
 
 あの頃の記憶は、幻なのだろうか。
 新入社員として初めての出張で地元を訪れることになった。出先の仕事が思いがけず順調に終わり、二泊三日の最終日は予約した帰りの電車まで三時間ほど空いてしまった。会社に連絡を入れると、このまま直帰してよいとのお達し。
 悩んだ挙げ句、二両編成の古びた列車に乗って、わたしは懐かしい駅へと向かっていた。
 タクシーを使おうと思ったけど、駅前の小さな煙草屋が古墳巡りにどうぞと貸し自転車屋もやっていて、たいそう安かったので借りることにした。
 駅から田と用水路に挟まれた細い道を十五分も走ると、緩い上り坂になる。左手には見覚えのある広い寺の黒い板塀が見えてくる。ああ、近づいているのだと、少しどきどきする。
 県道を越えるとわたしが住んでいた団地の建物がずらりと姿を現した。一つの棟に十ばかりの家が連なって、それが二十列ほど整然と並ぶ。ああ、そうだ。この道からの眺め。建物の形に見覚えがある。この辺りの二階建ての区域を三区と言っていたことが不意に思い出される。二区は平屋で四区は四階建てだった。
 勝手に浮かび上がってくるいくつもの記憶。朧気な懐かしさに浸食されていく感覚。
 そっくり昔のままというわけではなかった。建物が古くなっているのは予想の範囲内だけど、久々に見る家々は、記憶の中にあるものよりずっと小さく見えた。家の庭や、玄関の肌色の扉。棟の間の細い道。川沿いのフェンス。
 これがわたしのいた世界だった。
 むかし住んでいた家の場所も思い出したけど、そのまま自転車をこぎ続けた。
 用水路は変わらずそこにあったし、田圃も残ってはいた。だけど、やっぱり橋も川幅も小さく感じられた。
 かつて、田の周りは空き地ばかりだったけど、いまでは所狭しと家が並んでいた。隣町の神社はもう見えない。
 さらに自転車を走らせる。農家が点在していた長閑な風景は当たり前のようになくなっていた。
 ただ、わたしが目指す場所ははっきりとしていた。
 記憶と同じ青空の下に、あの鉄塔がそのまま大きく聳(そび)えていた。
 
 川を渡る。短く細くなった橋。舗装された道に自転車を止める。畦道は中途半端に整備されていた。刈り入れの終わった田に人の姿はなかった。
 あの場所がまだ残っているのが遠くからでも見えた。
 砂利の敷き詰められた一画。鍵の掛かった小屋。
 裏では黄金(こがね)色のススキが生い茂っていた。
 いや、子供の頃はずっとススキだと思っていたが、いまはオギだとわかる。あの頃とは違うのだ。
 この場所だけは、まるで変わっていないように見えた。
 密集するオギを掻き分けて中へ。
 遠くなる風景。何も見えなくなる。それは誰にも見られていないということ。世界の音が消える。空だけを見るための場所。
 わたしはここで何をしていたのだろう。
 あの頃の気持ちを思い出そうとする。
 柔らかな穂が靡(なび)くように揺れる。招くように揺れる。
 眩暈。
 足を取られて倒れそうになる。
 伸ばした手が、体が、力強く支えられる。
 そこにリクちゃんがいた。
 わたしはようやく安心する。
 リクちゃんの両手を掴む。
 話したいことはたくさんある。
 だけど、何から始めればいいのか。
 リクちゃんがわたしの手を引っ張る。
 ススキの穂を掻き分けて外へ出た。
 冷たい風が、頬を撫でる。
 寒かった。
 リクちゃんは小屋の側へわたしを連れて行く。
 そして地面を指した。
 土が盛られていた。
 お墓だ。
 頭上を見る。空へ向かう鉄塔の、複雑に絡み合った鉄骨の影に、ひでりがみを探す。
 今度は誰のお墓なのだろうか。
 わたしはリクちゃんを見た。
 リクちゃんは大きな指で自分の顔を指して、次にわたしの顔を指し、最後にお墓を指した。
 リクちゃんの言いたいことがわからなくて困った。リクちゃんはそんなわたしを見て少し笑ったようだった。
 リクちゃんの一つしかない目から涙が落ちた。
 お墓の上に。吸い込まれていく。
 わたしは瞬きを繰り返して、また鉄塔を見上げる。
 遙か遠くの山まで続く電線。どこかに雲がないだろうか。音符になるような。
 遠くなる風景。世界の音。
 わたしは何をしているのだろう。
 視線を戻すとリクちゃんはいなくなっていた。
 
 
 ぼんやりと歩いていた。
 わたしの停めた自転車が遠くに見える。見慣れない景色の中に。
 足を止める。いつの間にか畦道じゃなくなっている。
 いま振り返ったら、そこには揺れるオギも小屋も鉄塔もなくて、ただの家並みがあるだけなのかもしれない。
 きっとあれはわたしとリクちゃんの墓だ。
 出会って心を通わせることができたあの頃のわたし達。
 やっぱりここへ来てよかった。
 さよならリクちゃん。
 おもしろかったね。
 
 自転車をこぎ始める。予約した列車の時間を気にしながら。
 ペダルが重かった。風が目に染みた。
 あの頃、一人でずっと空を見上げていても寂しくなかった。
 
 いまはもう、そうじゃないけど。

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