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中編小説【白の添え歌~前編】(文字数9556 無料)

北へ向かう男

 鮮やかに晴れ上がった空の下には、青に挑むような白が広がっていた。
 白の大地は朝の光を跳ね返す。風まで染め上げようとする輝きがどこまでも続く。
 ニウユは塩の湖として知られていた。いまは乾期のため、その表面に水分はほとんどなく、ただ真白な塩だけが乾いた姿を晒している。
 湖の南には大きな町があったが、広大な塩田に比べれば、ほんの一握りの賑わいにすぎなかった。
 町の側には採掘所があり、絶えず塩が切り出されていたが、それによってこの土地に堆積した莫大な塩が減る気配はなかった。主に人力で塩を集めるため、大掛かりな機械も設置されておらず、積み上げの動力となっている風車が三つ、昼夜を問わずゆっくりと回っていた。
 塩の湖の中央に近い区域。銀鏡のようなその表面に、いま一本の線が刻まれつつあった。
 町から始まり、北へ延びる細い筋。それは足跡だった。
 延々と続く足跡の先に、その主がいた。
 塩の平原の広大さに比べると、その存在はあまりに頼りない。
 いつ消えてしまっても不思議ではないその点は、ゆっくりと北へ移動していた。
 厚手のオーバーを着て、大きな荷物を背負い、帽子を目深に被った若い男。
 地を覆う聖なる瘡蓋(かさぶた)の上を一歩ずつ前進していた。
 
 
 自分の顎を汗が伝う感触。
 フィルマンは下を見た。滴が足下に落ちていき、塩に跡形もなく吸い込まれる。
 夜明けと共に町を出発し、既に太陽はかなりの高さだ。ようやく湖の半分まで到達しようとしていた。
 背負っている大きな筺(はこ)の重さが両肩に食い込む。顎を肩口にこすりつけ汗を拭く。荷物を揺さぶり、肘を回して紐を少しずらす。首を捻って痛みを分散させようと試みる。効果はあまりなかった。
 また歩き始める。
 北へ向かって。
 彼方に見えるカセツ山脈。かすんだ雲がなびく乾いた空。そして、見渡す限りに広がる塩の湖。
 どうしてこんなことになったのか。
 なぜこんなことをしているのか。
 気を紛らすためにそうした疑問を並べているだけだと自覚していたが、それもいつの間にかわからなくなる。
 単調な景色に同調するように、自問は答えのないまま、思考が静かになっていく。
 問いかけという言葉に対してふと浮かび上がる情景。
『はい、それでは今日の授業は終わりです。とにかく疑問でもわかったことでもいいので、整理してノートに書いて下さい。箇条書きにして。週末に提出してください』
 八年間通った教会学校でフィルマンを教えていたバーマンという牧師の顔を思い出した。
 幼かったがませていたフィルマンは、いつか父の知り合いの大工が不思議そうに口にしていた疑問をノートに綴った。
 裁判所の床はどうして他の建物より摩耗が激しいのでしょうか。
 翌朝返ってきたノートには『裁判所は神とは縁遠い場所だからです』と記されていた。そこに何か大人びた雰囲気を感じ取ったフィルマンはしばらくいろんな場面でその台詞を応用して使った。
 では、この塩の上はどうだろうか。この神々しい風景は。
 人を寄せ付けない環境は神に近い場所の条件となりうる。それはただ人の都合だけで構築された理屈ではないのか。
 
 
 塩の上をただ進む。
 わき上がるたくさんの疑問。何か結論を得ようとしているわけでもないが、詰まらない思考が次々に溢れてくる。
 複雑な法律も意味のない慣習も町から離れたこの場所にはないのだということ。
 いまこうして一筋のごく浅い足跡だけを刻みつつ、すべてから遠ざかっている自分は町にいる人間にとって、もはや存在しないも同然だろうかという疑念。
 塩を踏みつぶす足下から響く微かな音。
 自分の動きを繰り返し反映し続ける影。
 景色には思想はなく、宗教や政治的な論争も存在しない。それどころか、この世界のほんのわずかな場所でしか、そんなものは意味を持たない。
 ずっと耳につく低い音。
 セロの音(ね)に似ていると思った。
 塩の表面に空いた無数の穴の上を、風が通り過ぎる時に発せられる音だ。あらゆる音程が混ざって、うねるような一つの響きになっている。
 フィルマンは自嘲する。
 これも聞いている者がいるから生まれる感想であり、実際にはセロの音になど似ていない。それはわかっている。
 秩序、あるいは安寧という実態のないものを得るために隙だらけの理屈を組み立てる。
 人が人と接して暮らしていくうちに自然と身に付いた虚しい自己防衛なのか。
 その昔、この塩湖の側にはいくつもの部族が集まっており、弓や槍などを使って小競り合いを繰り返していたという。
 その頃にはもう少しいろいろなことが自由であったのかもしれない。
 彼と同じ大学で考古学を専攻していた友人は、現在の政治に関する知識はからっきしだったが、それは現在の政治家を全て唾棄すべき存在として嫌悪しているからだと断言していた。汚れた者達の行いには関わり合いになりたくもないのだと。
 もちろん、そんな消極的な立場は当時の仲間内ではとうてい受け入れられなかったが、この塩の湖で戦いが行われていた過去に、彼等を支配していた決まり事が、果たして何を拠り所としていたのか、いま、少しだけ興味がわいてきた。きっと、その友人に質問をすれば、喜んで教えてくれるのだろう。
 いまはもう無理だ。
 彼は背後を振り返った。
 意外なほどくっきりと塩の上に刻まれている足跡が、遙か後方のダルの町へと伸びている。もう大半の建物は判別がつかなくなっていたが、大聖堂の鐘楼だけは別だった。
 塊となった町のどこかに、考古学を専攻している友達も、それを批判していた友達も、唾棄すべき存在である現在の政治家も存在している。世界の片隅に寄り集まって己の世界を守るために必死になっている。
 いまこの広い塩の上にはなにも存在しない。
 少し視界が暗くなっているのを感じ、彼は帽子を目深にかぶり、歩を速めた。

東へ向かう男

 塩湖の中央を東西に横断する道がある。西はカタリナの町から東はティエラカータへと続いている。
 道といっても、ほとんど他の場所との区別はない。一定間隔で木の杭が打たれ、それを目印に進んでいくだけだ。
 その杭の列が前方に見えてきた。地面に出ている部分は短く、その何倍もの長さが深く塩に刺さっているという。
 フィルマンは立ち止まって左右を見た。
 東西にあるはずの町は遠すぎて見えなかったが、左の方に小さな点が見えるのに気がついた。
 人影だった。一人きりで橇(そり)を引いていない。さして大きな荷物も持っていないようなので、商人ではなさそうだった。
 西のカタリナからやってきたのだろうと見当をつける。塩の上を東へ渡れば、塩湖の辺(ほとり)にある辻馬車の待合所へと向かう最短の陸路となる。そこからさらに荒野の道を東へ歩けばティエラカータだ。カタリナから南下して塩湖の南を迂回し、ティエラカータへ向かう馬車もあるが、その料金は決して安くないうえに、時間もかかる。馬車賃を節約するために危険な塩の上を歩くという旅行者もいないではなかった。もちろん、塩湖の上を渡ることができる動物はいないため、徒歩しか手段はなく、荷物が多ければ橇を自分で牽いて渡ることになる。塩の上を歩く際にこういった労働を伴うというのは、下手をすれば命取りになりかねないが、この辺りに詳しい者であればそういった手段を選ぶこともある。
 フィルマンは少し歩みを遅くした。このままだと、丁度、前方で鉢合わせしそうだったからだ。他人と話したい気分でなかった。
 期待通り、西からの人影は、ずっと早くフィルマンの正面へとさしかかった。これなら顔を合わせることもないと安堵する。
 しかし、人影はそこで立ち止まると、両手をフィルマンに向かって振り始めた。
 これは、この辺りの砂漠を行き交う商人や旅人がお互いの姿を見かけたときに行う決まり事で、自分が水や食料に困っていないことを示すための合図だった。
 塩湖を徒歩で横断するという行為もそれなりに危険ではあるから、ということなのかもしれないが、塩の湖は基本的に神聖な場所であり、そんな場違いなことをするところをみると、行きずりの観光客なのだろう。
 ここで無視して手を振り返さなければ、こちらに異常ありと解釈され、相手が駆けつけてくるという可能性もある。とりあえずフィルマンは両手を振り返した。これで相手は気が済んで勝手に自分の旅を続けてくれるだろうと、そう願った。
 ところが、前方の人影はそこに立ち止まったまま、どうやら水筒の水を飲んでいるようだった。
 水を飲み終わった後も一向に動き出そうとしない。休憩をする間に塩の上に座り込まないだけの知識はあるらしい。いっそそうしてくれたら楽なのだが、と一瞬思った。
 近づくにつれてそれが自分と同じ歳ぐらいの若い男だとわかる。無邪気そうな笑顔を浮かべてこちらを見ている。
 挨拶だけならしょうがない。
 フィルマンは半ば諦めて笑顔で応じた。男はそれで話しかけてくる了解を得たのだと勝手に思ったらしい。
「いやあ、こんにちは。思った以上に暑いですねえ。塩の上で太陽の光が反射するからなのかな」
 微妙な拒絶を含んでそうでしょうねと返した。
 会釈をしながらそのまま通り過ぎようとすると、男が笑みを浮かべたまま質問をしてきた。
「ダルの町から来たんですか? 僕はティエラカータへ向かう途中なんです。このままあっちに進んでいけばいいんですよね」
 と、杭が立ち並ぶ東を指さす。しょうがないのでフィルマンは立ち止まった。
「そうです。必ず次の杭が見えるようになっていますから迷うことはないでしょう。あまり大きく進路を外れないようにしてください」
 助けは来ませんから。と言いかけて「聖地ですから」と訂正した。
 男は水筒を背負い袋に戻した。まだ休んでいればいいのにと思ったが、フィルマンは黙って見ていた。
「靴もズボンも敷布も毛皮を貼り付けたやつにしろって言うんです」
「それは常識です」
「それから、宿屋の親父がにやにやしながらね、絶対に素肌で地面に触るなって言ってました」
「ええ。その通りです」
「日が沈む前に必ず塩湖を渡り切れとも言われました」
「その忠告も厳守するべきですね」
「そう言われると気になりますよね。素肌で地肌に触れると実際にどうなるのか。あるいは夜歩くとどうなるのかも」
「いや、やめた方がいいですよ。まあ、塩に素肌が直接触れたら溶けてしまう、とでも思っておいた方がよいでしょうね。実際は違うのですが、結果は似たようなものです。悪くするとあっという間に命を落とします。転んだりしたらまず助かりません。それに、塩湖へ出て行った者が死んでも誰も捜索をしませんしね」
「へえ。それは気をつけないと」
 と言いつつも男の顔からは笑みが消えなかった。
「ところで、馬車乗り場にはティエラカータ行きとトッカレータ行きがあるんですよね。ええっと、赤い旗は……」
「ティエラカータ行き。そして、黄色い旗がトッカレータ。旗の色が黒く見えたら塩の光で目をやられている証拠だ」
 フィルマンが台詞の続きを言うと、男は口を開けたまま間の抜けた表情になり、その後で笑い出した。
「そうそう、宿屋で聞いたのと同じですよ」
「実際に雪焼けには気をつけた方がいいです。その眼鏡があれば平気だと思うけど」
 フィルマンはそう注意をしながら、いつ男が東へ向かって歩き出すのか待っていた。あるいは自分から出発すると切り出す機会を伺っていた。
「ええ、宿屋の前の雑貨屋で買いました。吹っ掛けられたんで粘って値切ったら半額になりましたよ。不格好なのが嫌なんですけど、まあ、これはしょうがないですね」
「靴と眼鏡を準備していればどうってことないですよ。後は日の沈まないうちに渡ってしまえばいいのです」
「それもしつこく言われました。朝早く出れば、昼過ぎには渡りきれるだろうから、大丈夫だろうって」
「もうここが中間ぐらいでしょう」
「ああ、そりゃよかった。思ったより早いや。なんだか風景が変わらないものだから、なかなか近づいているという実感がわかなくて。せめて橇でもあればいいのに」
「犬や馬だけじゃなく、動物達は危険な塩の上を歩こうとはしませんからね。じゃあ、わたしは急ぎますので」
 フィルマンはさりげなくそう言えたことに満足していた。肩に食い込む荷物の重さにも辟易していた。汗はひっきりなしに出てくるし、立ち止まっていても体力を消耗するばかりなのだ。
 男は不意をつかれたような表情でいたが、すぐに何度もうなずいて「ああ、ありがとうございました。じゃあ、お気をつけて。僕ももうすぐに出発します」と手を振った。
 再び、フィルマンはゆっくりと北へ向かって歩き出した。一度だけ振り返ると若者はまだ手を振っていた。無視して歩き続ける。
 日差しはさほどきつくはなかったが、塩の白がまぶしかった。
 また風の音が聞こえた。彼の頭の中でセロの音になる。
 塩の表面を一歩一歩。
 メロディーがゆっくりと蘇る。
 弦の上をうねるように往復する弓。全てを生み出す細い指。
 セロの指板を抱える彼女の腕。スカート越しに形が浮かび上がる筐体を挟む足。
 塩を踏みしめる。
 残される足跡。
 自分がいままで生きてきた印だと思った。
 例えば一つが一日だ。
 まだ幼かった頃、水たまりで転んでびしょぬれになった日のこと。慰めてもらおうと思い泣きながら家に帰ったら母が泣いていたこと。直後に祖父の死を知らされた時のこと。初めて教会を見上げ、大きな門の上に恐ろしげな石像があるのを発見した感謝祭の日の空。家にたった一つしかない時計を壊してしまった冬の日の午後。仕事が決まったと告げたときの、老いた母の笑顔。
 その一つ一つの思い出が足跡だ。
 そして、彼が勤める楽器屋に、大きなセロ筺を抱えた女性が入ってきたときのこと。
 チルダとの初めての出会いだった。
 あの日から、きっと自分の足跡は色が違っていただろう。
 足跡。
 チルダがセロの練習をしているときの言葉が思い出された。
「曲は作曲家の残した足跡だと思わない? 優れた曲は大きな印となって後世に残るけど演奏家は自分の存在を残すことは難しいわね。もちろん、名人ともなると話は別だけど。わたしが最初に出会った大きな足跡はこの曲。『情熱のための赤』よ。もう最高。これを演奏したいから、これほど練習できたの。少し長いけど、最初から聞いて、いい?」
 塩の上の、一日で消えるような思い出の一つ。
 ため息をつきながら、フィルマンは進む。
 顔を上げる。
 遠く、正面の山に大きな塔が見える。聖碧教会の石碑だ。右手には微かにメディエ像が見える。荒野に立つ黄誠団の聖地のシンボル。
 懐から水筒を取り出す。最後の一口を飲み干すとそのまま投げ捨てる。
 両肩が痛い。
 彼は立ち止まり、虫除けの毛皮の敷布を塩の上に広げると背負っていた大きな荷物を置いた。
 肩を回す。
 途中で会ったあの男はどうしただろうかと、ふと後ろを振り向く。
 そしてため息をついた。
 少し離れたところに、男が後をついてきていたのだ。
 フィルマンと目が合うと、当然のように笑って手を振った。フィルマンは男を無視して歩き始めた。小走りの足音が近づいてきて隣に並んだ。
 彼が少し足を引き摺っていることに気がついた。
「こんにちは。また会いましたね」
 などと惚(とぼ)けたことを言う。
「東の馬車乗り場に行くんじゃなかったんですか」
 フィルマンは呆れて訊ねた。
「そうなんですけど、いくつか気になることがあったもので、あなたに訊いておこうかと思いまして」
「なんですか」
「僕がたどっている道なんですけど、二三日に一度は誰かが通っているって宿屋の親父は言っていたんです」
「まあ、あまり頻繁にではないけど、それなりにいますね。商売人が使っているから」
「だけど、おかしいんですよ。ここ一週間はこの地方に雨も降っていないはずなのに」
 興味はなかったが、とりあえず聞き返す。
「何がですか?」
「足跡です。塩の道の上はまるで均されたように綺麗で、僕の足跡しかないのです。これっておかしくないですか。こんな風も穏やかな土地で簡単に全てが消えてしまうとも思えないのですが」
 今度はフィルマンが笑う番だった。本当にこの旅人は何も調べずに塩湖を渡っているのだとわかって呆れた。
「でもこの塩湖では不思議なことじゃないんです。そのうちにわかりますよ」
 そんな無謀な者がどうなろうと知ったことではなかった。黙っていると男はいきなり胸を指さして「僕は双一郎と言います」と言った。
 いきなりの自己紹介である。
「ああ、わたしはフィルマンです」
 反射的に答えてしまう。別に隠す必要もないことだった。
「よろしく。僕は旅行者です。いろいろと面白い場所を探してあちこち訪れています。ここには塩湖を見に来たのですが、あまりに美しいので、歩いて横断したくなりました。もちろん、馬車代が浮くというのもありますが」
「わたしはずっとこの塩の大地を見て育っていますが、確かに特別な地です」
「フィルマンさんは南の町からやってきたのでしょう」
 フィルマンはうなずいた。あまり個人的なことを聞かれるようだと鬱陶しい。
「南の町はあまり観光に向いていないと聞かされていたので、行く予定はないのですが、どんなところですか」
 町のことなら答えても苦にはならない。
「大きな教会が二つあります。聖碧派の大高師様と黄誠団の総師教様がいらっしゃるので、信仰を持った人はたくさんやってきますが、ただの観光客にとってはあまり楽しいところではないでしょうね」
「ああ、そうですか。だったら僕は遠慮しておこう」
「他の神を信じている人にとっては、あまりよい場所ではないかもしれません」
 会話が途切れた。
 フィルマンは構わず歩いた。
 双一郎という男は黙ってついてくる。
 もう何も言うことはないとフィルマンは自分の中で結論を出していた。
 しばらく無言で二人は歩いた。
「僕はね、探偵なんです」
 無視しようと思ったが、それは初めて聞く単語だったので、反射的に聞き返してしまった。
「探偵ってなんですか」
「え? ああ、この辺りでは一般的でないのかもしれませんが、あの、人が抱えている事件を調べる職業です」
「わたし達はそれを警察といいますが」
「いえ、警察は主に国に所属する機関だと思いますが、探偵は民間です。個人の依頼を引き受けてお金をもらうのです。だから些細なことでも報酬さえあれば調べます」
「ははあ、なるほど、それは便利ですね。ただ、あいにくわたしの町では警察は教会に所属しており、その権限は絶対です。警察以外の機関、人間は他人の秘密に触れてはいけないのです。そのこと自体が犯罪となります。もちろん、牧師は告解を聞く立場なので、例外的に人の秘密に触れますが、捜査はしません」
「ははあ、そりゃ厳しいな。なおさら僕なんか行かない方がいいってことですね。まあ、よほど不思議な事件でもない限り、僕も進んで関わろうとしませんけどね」
「どんなものが不思議な事件なんですか?」
 いつの間にか双一郎と名乗る男と話ながら歩いていた。束の間、荷物の重さを忘れていた。
「例えば鍵の掛かった部屋の中で人が死んでいる場合ですねえ」
「そりゃ自殺だ。宗教によっては自殺を禁じているものもあるけど、この辺りではそういうことはないですね」
「だけど、そうでない場合もあるのです。自殺ということで事件が終結してしまえば、警察はそれ以上調べようとしませんよね。そこで犯人はまんまと罪を逃れることができるという寸法です」
「それはそうだな」
「だから、誰かを殺したいと思ったら、自殺に見せかけるというのは一つの方法ではありますよね」
「ああ、なるほど。理屈の上では確かにそうだ」
「でしょう。だから、そうなると、何らかの方法を使って犯人は鍵の掛かった部屋で人が死んでいる状況を作り出そうとする。これを解くためには犯人の仕掛けたトリックを見破らなければなりません」
「実際にそんなことがあるんですか?」
「まあ、特に小説の中ではね。でも、現実には、そんな都合のよい状況に巡り遭うことなどそうそうありませんね」
「ああ、小説ですか」
「僕はそういう本を読むのも好きなんですよ」
「わたしはあまり作り物のお話は読みません。でも、この辺りにはそんな小説もないでしょうねえ」
「どうしてですか?」
「だって、人を殺したりしたら、間違いなくその人間は地獄に堕ちますから。この辺りの人間はまず間違いなく黄誠団か聖碧教の信徒です。そのどちらも殺人は最大の罪であると教えていますよ。ちなみにわたしは聖碧教です。もちろん、教えを守るためにはあらゆる手段を用いる必要がありますが、自己のための殺人となると、これはもう間違いなく無限地獄に堕ちます。死してなお苦しむということが、どれほど恐ろしいか、子供の頃から教え込まれていますから」
「ははあ、つまり、警察をごまかしたところでなんの意味もないわけですね」
「そうです。天の目は欺(あざむ)けない。それが真理であり、この国にいる者達は決してそのことを忘れません」
「なるほどねえ……まあ、信仰も場所や時代によっていろいろですから」
「魂は己の信じるところに帰る、という言葉があります」
「はあ、そうですか。そりゃ便利ですねえ」
「便利? 信じるところへ帰るということがですか?」
「いえ、その言葉自体が」
 旅行者の中には無神論者もいる。それはそれでかまわない。
 フィルマンはしばらく考えていたが、突然、あることに思い至った。
「だとすると、探偵であるというあなたに、一つ不思議な事件の話ができると思います」
「ほうほう、それはそれは。是非伺いたいものですね」
「まあ、これはわたしがやってきた南のダルの町で起こった事件だと思ってください」
 また、フィルマンの顎から汗が垂れた。彼は肩で頬を拭う。見れば双一郎という男の額にも汗が浮かんでいる。
 もうそろそろ昼頃だろうか。
 彼は話し始めた。
「ダルの町の北側には教会地区と呼ばれる一郭があります。そこには司祭や僧侶といった聖職者や教会関係者が主に住んでおり、極めて裕福な人達が住んでいます。南のスラムとは通りの雰囲気からして少し違っております。教会地区のさらに北側、つまりダルの町の一番北になりますが、この塩湖に面したところに大きな聖碧教の本部があります。ここにはこの辺りでも一番大きな教会があって、大聖堂の天井にあるステンドグラスときたら、ため息がでるほど見事なもので『天を見る窓』と呼ばれています。これが公開されるのは年に一度の大祈祷祭の時だけです。おまけに、信者のみが出席する祭事なので、残念ながら観光客を呼ぶことはできません」
「ああ、そんなことを言われると、なんとしても見たくなりますねえ」
「聖碧教の三大聖者であるヌエイエが悟りを開いたのがこの塩の湖の上であったということで、教会の中庭にはこの塩湖の北側から集められた貴重な塩が惜しげもなく敷き詰められています。塩の上で祈りを捧げるというのは聖碧教徒にとって重要な儀式です。大高師様ももちろん、毎朝その庭で祈っています。また、庭で祈ることを許されているのは高師クラスの人の中でもごく一部ですが、時折恩情によりそれ以外の人間が立ち入りを許されることがあります。それはもう大変名誉なことなのです」
「ステンドグラスは見たいけど、そっちはさほどおもしろそうじゃないですね」
「少なくともあの町に住むものにとっては喜ばしいことなのです」
「そうでしょうな」
「これからお話しするのはその聖碧教の教会で起こった不思議な事件についてなのです」

後編へ続く

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