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小説【船は故郷へ】3回目 (文字数12147 全4回)

第2回からの続きです

第三章 対決

 反射的に手をかざしてその眩しさから逃れようとした。
 まるで古い映画の脱獄囚だ。
「貴様か」
 扉の向こうの人間がそう叫ぶのが聞こえた。
 聞き覚えのある声。
 明確な殺意。
 わたしは左手のコンテナの方へと身体を投げ出した。
 銃声。
 衝撃が全身に走る。
 荷物の陰に隠れる。
 撃たれたのかと思ったが、身体は動いていた。
 痛みはある。主に肩と背中からきていた。先ほどに続き、またしても同じ箇所を床にぶつけたらしい。
 弾む息を必死に整える。
 そりゃ少しはトレーニングもしているが、スケジュールがハードすぎる。いい加減ここらで本日の体力作りは終わりにしたいところだ。いまならきっとビールがうまいだろう。
 考える。次にとるべき行動を。
 相手は圧倒的な優位に立っている。なにしろ銃があるのだ。
 対してこちらは丸腰だ。
 倉庫の中に武器になりそうなものはなかっただろうか。
 一辺が二メートルあるコンテナは、振り回すには少し大きすぎるだろう。確か空の状態でも百キロ近くある丈夫な造りだ。いっそのことコンテナの中に逃げ込みたいが、鍵がないのではどうしようもない。
 ハイスクールで柔術を習ったことはあるが、あまり真面目に聞いていなかったし、中途半端な技術がいまここでフォークダンス以上に役にたつとは思えなかった。
 完全に身を潜めていたのだが、そのままでは相手の動向がつかめない。下手に頭を出したらやられそうだが、どのみち相手がやってきたら終わりである。
 懐中電灯を持っているということをまるで予想できなかったのも迂闊だった。
 迂闊大安売りのいまこそ冷静になることが必要だ。
 しかし、自分の立場を見つめ直してみると、いままでで一番立場が危うくなっているという結論が容易に出る。相手はターゲットであるわたしの居場所を知っており、武器を手にしており、殺意を抱いている。わたしの逃げ場所は決して広いとはいえない倉庫の中だけ。武器となるものは棒っきれさえない。全身の打撲もひどいし、これだけ汗をかいているのにビールさえないのだ。
 まさか、彼だったとは。いま聞いた声について考える。
 こうして無事でいられるのも長くはないかもしれない。殺されるとしたら、いまさら事実を知ったところで意味はないだろう。
 それでも、わたしを襲おうとしている人物について考えずにはいられなかった。
 わたしを撃ってきた時の声の響き。廊下の灯りを背景に浮かび上がった一瞬のシルエット。
 間違いない。
 このチームで組むときのリーダー。いつだって冷静沈着で頼りになる親父さん。ギリス・ノートン船長だった。
 混乱した頭のまま考えていた。先ほどコントロールモニタで操縦室の映像を見たばかりだ。船長の椅子に誰かが座っていた。少なくとも頭の一部が見えていた。あれが撃たれたギリスだと思ったのだが、どうやら別の誰からしい。
 そんなことより、いまこの瞬間をどうするべきか。ずっと暗闇で息を殺して耳を澄ましているが、何も聞こえない。疲弊した自分の呼吸がうるさいだけだ。
 背後から回り込まれたらお終いだ。いや、相手は銃を持っているのだから、正面からでもあっけなく終わってしまうだろう。
 それならば、先に相手の居場所を確認して、少しでも生き残るチャンスを大きくしよう。
 わたしは顔を出した。
 ドアは完全に閉まっているようだ。倉庫の中は闇に支配されていた。
 これなら、あるいはわたしに勝ち目があるかもしれない。
 相手が懐中電灯を使わないのはわたしに居場所を知られないようにするためだろう。
 もちろん、赤外線スコープなんかを用意されていたら、もうお手上げだが、この船にそんな設備が常備されていただろうか。
 それにしても、なぜドアのところにある照明のスイッチを入れないのだろう。
 部屋が明るくなれば、わたしなど動き回る大きな的になるだけだ。やはり赤外線か? それならなぜさっさと攻撃してこない?
 解せない話ではあるが、そんなに相手の都合を慮(おもんぱか)ってもいられない。
 いまここでわたしがするべきことはなんだろうか。
 考える。
 やがて結論が出される。
 この部屋から逃げること。それしかない。外に出て、なにか武器になりそうなものを探すことだ。
 迷っている間に部屋の灯りがつけられでもしたら、それこそ最後だ。
 しかし、かといって、いまここからのんびりと出ていくこともできない。
 この空間の唯一の出入り口であるドアの前で相手が待ちかまえていないと、どうして断言できるだろうか。
 なんとか確認する方法はないか。
 考えた挙げ句、わたしはブーツを脱いだ。右足は利き足なので、左の方を選んだ。
 身を起こして、走る準備をする。
 扉のすぐ右側に向かって、大きく放物線を描くようにしてブーツを投げた。闇に消える。その落下地点からやや離れた扉の方へと、できるだけ足音をたてないように進んだ。
 落ちたブーツに向かってギリスが発砲し、その銃火を見てわたしが彼の位置を確認して飛びかかる、あるいは外へ逃げるという計画だった。
 かなり危険を伴うが、このシチュエイションで思いついた精一杯の方法だ。
 息を止めてその瞬間を待った。
 ブーツが床に転がる情けない音がした。
 緊張。
 静寂。
 反応なし。
 どういうことだろう。
 底の浅い陽動作戦があっけなく空振りに終わったのか。
 それとも、扉の付近にはいないのか。
 振り向いてコントロールモニタの方を見る。
 そこからでも室内照明の操作は可能だ。
 今は壁の番号表示の灯だけだが、誰かが使用していれば、モニタの明かりが見えるはずだ。
 もしかして、もう部屋の中にいないのか。
 どうしてもそう思えてくる。
 いや、向こうが一枚上手なのかもしれない。いまこの瞬間にも、わたしの位置が確実に判るまで待っているのかもしれない。
 結論は出ない。堂々巡りだ。
 なぜブーツに反応しなかったのか。
 ふと、思いついた。
 弾が少ないのだ。
 あるいは、すでに無くなっているのではないか。
 それならば、この不気味な沈黙も説明がつくではないか。
 たぶん、ギリスが使っているのは持参した拳銃だろう。
 彼は替えの弾を持ってきているだろうか。
 宇宙飛行士達は銃に対して無頓着な者が多い。中には銃の収集や射撃を趣味とする人間もいるが、どちらにしろ宇宙船の中でそれほど頼りになる武器ではない。船の外壁は、ある程度丈夫に作られているので、銃ごときで空気が漏れることはない。というか、そういったことを考慮して持ち込みができる型番が決められているのだが、下手に撃った場合、どこで計器や配線がやられるかわからない。その犠牲を払ってでも回避しなければならない事態に直面したときにだけ役に立つのだ。海賊に立ち向かう場合、あるいは今のような状況がそれだ。だが、そんなことはそうそう起こるはずはない。当然のように、わたしは予備の弾など持ってきていなかった。
 ギリスも同様ではないだろうか。
 先ほどの鉢合わせはわたしも驚いたが、彼にとっても突然の事態で、思わず最後の弾を使ってしまったのかもしれない。ギリスとしては、わたしにそれを悟られないようにする必要があるだろう。だからわたしが放り投げたブーツに向けて拳銃を撃つこともできないわけだ。
 もちろん、それが事実かどうかはわからない。
 しかし、可能性はかなり高いのではないか。
 そこで、思い出した。
 わたしの荷物がロッカーから消えていたのを。
 だめだ。また振り出しか。
 きっと彼は武器を探してあのロッカーを漁ったに違いない。そして、乗組員の多くが、あのロッカーに銃を入れていただろう。
 だとすると、いまの彼は複数の凶器を手にしていることになる。弾を使い切ったら別の銃に替えればすむことだ。

 どうするべきだろうか。
 しかし、別の銃に容易に替えられるのなら、やはり先ほどのブーツに対して反応がなかったのはおかしい。
 となると、拳銃を一つしか持っていなくて、弾を使い切ったという可能性は依然として残る。しかし、単に暗闇だったので別の拳銃を用意するのに手間取っただけかもしれない。
 汗がこめかみから顎へ垂れる。
 緊張の連続でかなり汗をかいていた。循環装置のついたシャワーが二十五時間に一度使用可能だ。みんなその順番を待ちわびている。シャワーの後の一杯があるからこの航海を乗り切ることができるという奴もいる。わたしもいまはそれに諸手を上げて賛成したい。
 いまはこの船もずいぶんと人が減ったようなので、待たずにのんびり浴びることができそうだ。
 ただし、船内に殺人鬼が闊歩していない場合に限る。
 もしかしてギリスもシャワーを浴びに行ったのかもしれない。
 わたしの荷物から取り出したのはビールだけなのかもしれない。
 思考がまとまらない。
 手のひらで額を拭う。出血は止まったようだが、汗がひどかった。
 明らかに温度が上昇している。
 先ほどのコントロールパネルで庫内の温度は調節できるが、もちろんわたしはそんな操作をしていない。倉庫内の一括管理ができる操縦室で倉庫内の温度を上げたのだろうか。
 理由はわからない。ギリスがやったのだろうか。そして、その様子を見に来たのだろうか。あるいはわたしを発見してから慌てて戻って操作したのか。だとするとこの部屋にはいないはずだ。
 とにかく、こんなところにいたのでは蒸し焼きになってしまいそうだ。
 もし、ギリスが同じようにこの部屋に潜んでいるのなら、彼も相当につらいはずだ。船外活動用のスペーススーツでも着ていれば平気だろうが、先ほどのシルエットから判断する限り、それはあり得ないはずだった。
 と、簡単なことに気がつく。
 この倉庫のコントロールパネルで温度を下げればいいのだ。
 いや、しかし、それが奴の狙いかもしれない。だとしたら、パネルが見える場所で待ちかまえていることだろう。
 ああ、もう堂々巡りだ。
 細心の注意を払えばいいということにしよう。
 わたしはようやく動き始めた。
 温度はまだ上昇しているようで、空調機の排気口があるコントロールパネルの方へ行くとさらにひどくなった。
 ギリスがどこにいるのかわからないが、彼もこの暑さの中では神経を張りつめていることなどできないに違いない。と思っていたら、コンテナから突き出ている補助輪にブーツのない左足をぶつけてしまった。鈍い音が響く。悲鳴を飲み込んで一人暗闇で激痛に耐えうずくまる。その拍子に壁に立てかけてあったコンテナを運ぶための大きな運搬補助棒にぶつかり、次の瞬間にそれは派手な音を響かせながら床に倒れた。
 なんとかその場から逃れようとしたが、コンテナの支えに足を引っかけて床の上で無様に転がっただけだった。
 万事休すだ。
 今までの一生を走馬燈のように思い出そうとしたけど、暑くてとても集中していられない。
 自分の間抜けな行動が命取りになるとは。
 死を覚悟した。その時、地球に残してきたヨランダのことを思った。彼女は怒ったままだろうか。謝っておけばよかった。早めに宇宙船に乗りこんで眠る時間があるなら、電話で連絡をすればよかった。誕生日にネックレスをプレゼントすると約束したが、誕生日がいつなのかまだ聞いていなかった。いや、一度聞いたのだが忘れてしまって、その後、タイミングを逸したまま聞きそびれている。そういったことももうすべて失われてしまうのだ。そして、部屋に置いてある母親の形見のブローチと髪の毛を入れた小物入れを思い出した。故郷の海に撒(ま)いてほしいと生前に言っていたので、手元に髪を残したのだが、母親の故郷は飛行機で十時間以上かかる外国だった。姉も妹も、実行に移す金も時間もないということで、独身で身軽なわたしのところへ回ってきて何年も過ぎてしまったままだ。
 地球から何十万キロも離れたここがわたしの死に場所になるのか。
 せめて最後にビールが飲みたかった。
 静寂。
 汗が目に入る。ヨランダの笑顔が、母の怒鳴っている時の顔と葬式の時の曇り空が思い出された。
 静寂。
 ゆっくりと立ち上がる。
 何も襲ってこない。気配もしない。念のために十まで数える。待つ。
 思い切って扉の横の照明スイッチへ駆け寄る。
 少しためらった後、スイッチを入れる。
 ナトリウムランプの橙色が倉庫内に満ちた。
 辺りの様子を窺う。
 誰もいないようだ。もちろん、コンテナの陰に隠れているのかもしれない。
 様子を窺いながらコントロールパネルへたどり着くと、室内の温度を下げた。
 次にカメラの制御画面を呼び出す。自動反応モードだ。
 次々に船内の映像が映し出された。
 画像が止まる。拡大される。
 いた。
 廊下を力無く歩いている後ろ姿。
 ギリス船長だった。
 舌打ちをする。
 結局彼は最初からこの倉庫の中にいなかったということだ。わたしに向かって発砲した後、すぐに廊下に逃げたのだろう。わたしはまたしても、無意味な一人芝居を演じてしまったわけだ。
 銃を持った船長の右手は力無く下げられ、左手で脇腹を押さえていた。
 足取りがふらついている。どうやら負傷しているようだ。
 それがつまり、銃を持っていながらわたしから逃げた理由なのだろう。次々に皆を葬ったが、途中で反撃を食らったのか。もし、わたしが武器となるものをまるで持っていないということを知っていれば、躊躇することなくとどめを刺しに来ていたかもしれない。
 とにかく、わたしは最大の危機を脱したということだ。
 彼はどうやら操縦室に向かっているらしい。
 映像を切り替えた。
 
 
 先ほどと光景は変わっていなかった。計器類と背もたれが並んでいる。
 船長の席を見る。やはりそこに誰かがいた。ほんの少し見えている後頭部だけでは、人物を特定することはできない。
 しかし、あとは消去法だ。二等機関士のクォート・ウィーゼルか機関長のノエル・ロゼしかいない。
 やがて、ギリス船長が視界に入ってきた。
 彼は部屋の隅にある救急用の棚を開けて何か瓶を取り出し、床の上に座り込むとその中身をタオルに染みこませて脇腹に当てた。消毒液らしい。
 苦しそうな顔をしているが、あれだけ歩いたりできるのだから、致命傷ではないのだろう。しかし、ずいぶんと辛そうだ。
 何か罵っているようだが、わたしのことだろうか。あいにく監視カメラは音声のモニタまでしていない。操縦席の通信機を使えば話はできるが、彼がそのようなことをしてくるとも思えない。
 彼の作業がしばらく続くとみて、わたしはモニタを切った。そして、外部連絡のチャンネルを呼び出す。
 短いコールが続いた後、画面に宇宙港管制塔のホワイトが出た。
「おい、いったい……」
「ヴィーナス221だ」
「そんなことはわかってるよ。いったいそっちでは何が起こってるんだ? 状況を詳しく話してくれ」
「犯人はギリス船長だ」
 ホワイトが身を乗り出した。
「おい、何を言ってるんだ」
「彼に撃たれた」
「そんな馬鹿な」
「幸い当たらなかったが、危ないところだった」
「どういうことだ。そちらで何が起こっている」
 なんとかいままでのことを説明した。
 ホワイトは話の途中で何度も首を振り、額の汗を手の甲で拭っていた。信じがたいという表情だが、それはわたしだって同じだ。航行中のロケットからそんな状況を報じられても冗談だと思うだろう。
「船長はなにも言わずに撃ってきたのか?」
「貴様か、とかなんとか言っていたようだ」
「そうか……それでいま君は大丈夫なのか?」
「とりあえずまだ生きてはいるが、この先はまったくわからないね。警備隊は呼んでくれたのか」
「ああ。だが、あいにくその近辺の船が出払っていて、ちょっと時間がかかりそうなんだ」
「どれくらい?」
「半日から一日だそうだ」
「長いな」
「元々、定期的に警備隊の駐屯基地の近くを通るように航路を定めているからこそ、その程度で合流できるんだ。燃料代が余分にかかっても、安全を重視した進路になっているんだよ」
 ありがたいことだが、それまでもつだろうか。
「君の船は時間通り、計画通りに移動しているから、発見は容易いはずだ」
「操縦はコンピュータがやっているからな。馬鹿なことをしているのは人間だけだ」
「辛いだろうが、頑張って生き延びてくれ」
「ああ……当分それぐらいしかすることはなさそうだからな。飽きるまではなんとかやってみるよ」
 これからのことを考えると気が重くなってくる。とりあえず、このやっかいな状況を客観的に観察できる人間の助言を聞くのは有効な手段だろう。
「銃を持っている相手に対してどのように戦えばいいんだ? なにかアドバイスはないか?」
「君の銃はどうした?」
「ギリスに取られたようだ」
「手近に武器のようなものはないのか?」
「とりあえず、倉庫の中にはない」
「荷物の中は……そうか。コンテナには鍵がかかってるんだったな」
「ああ。そして、荷物の鍵は船長が持っているか、あるいは、受け取り人が解読キーを持っているというのが通例だ。どう転んでも僕には開けられない」
「清掃道具はどうだ? モップなどないのか?」
「宇宙船の清掃なんて地上でやるものだ。少しでも軽くするためにそんなものは積んでいないよ。それに、子供の頃から野球は苦手だったからな、飛んでくる弾をモップで撃ち返す自信はまったくない」
 野球に限らず、どのスポーツに関しても似たようなものだが。
「相手は負傷しているんだろ。なんとか不意をつくしかない」
「もう向こうはわたしの存在を知ってしまった。それは難しいな」
 彼はしばらく考えるふうだった。しかし、所詮は他人事である。果たしてどこまで本気だか知れたものではないが、それを責めてもしょうがない。
「いや、船長はずっと起きていたわけだよ。でも、君は八時間も眠っていたわけだろ。これは十分に有利な条件じゃないか?」
 思わず指を鳴らした。前言撤回だ。
「なるほど。気づきもしなかったが、確かに君の言うとおりだ」
 やはり相談してみるものだ。少し希望が見えてきた。
「いいか、相手は負傷の疲労もあるだろうから、やがて必ず眠る。それまで君はなんとか逃げのびるんだ。きっと向こうは短期決戦に持ち込みたいだろうから、傷の手当てをした後で君をもう一度捜し回るだろう。今度は確実にとどめを刺すために。その倉庫に鍵でもかけて閉じこもっていられないのか?」
「内側からか? 多分無理だと思う。倉庫に人が閉じ込められるような事故がないように、必ず外から開けられるようになっているはずだ」
「そうか。ところで、この通信室からでも君の船の様子がある程度モニタできるんだが、どうも1-Cの庫内温度が上がっているようだ。暖めて運ばなきゃいけないものなんてあったっけ」
「いや、それは初めて知った。どういうことだ? さっきこの1-Dの温度がやけに上昇したんで、冷気を取り入れているんだが、それも隣の部屋が原因かもしれないな」
「よければこちらからコントロールするぞ」
「え? そんなことが可能なのか?」
「ああ。大丈夫だ。そちらで『外部からの調節』というオプションが切られていない限りな……ほら、温度を下げたぞ」
「ありがとう。そろそろギリスの様子を見たいので、この通信を切ろうと思う」
「そうか。わかった。気をつけて行動するんだぞ」
「ああ。無事を祈っていてくれ。地球に帰れたら、また飲みに行こう。そのときに君の妹を紹介してくれ。それじゃな」
 一瞬、彼は曖昧な笑みを浮かべたが、拒否ではないと思っておこう。そうすれば、少しは生き残ろうというモチベーションが上がる。あ、ヨランダのことを忘れたわけではない。一瞬思い出すのに手間取っただけだ。
 チャンネルを再び操縦室へ。
 ギリスはまだ同じ場所に座っていた。目を閉じているようだ。眠っているのだろうか。あるいは、寝たふりか。
 ふと、船長がなぜカメラの前にいるのか、気になった。このような状況で監視カメラの存在を忘れているというのがもっともらしい答えだが、もしかしてわざとやっているのかもしれない。理由はもちろん、わたしを油断させるためだ。
 画面の隅に、操縦室のコントロールパネルが映っていたが、どうやら破壊されているようだ。船を管理する重要な目ともいうべきディスプレイに大きな亀裂が入っている。おそらく銃で何度か撃ったのだろう。
 じっとカメラを見るが、彼は動かない。
 手には銃を持っていないようだが、それこそどこかに隠しているだけかもしれない。のこのこ近づいていったら相手の思うつぼということも考えられる。
 こうなったら根比べだ。
 
 わたしはとりあえずモニタのスイッチを入れたまま、その場を離れた。
 ドアまで歩く。先ほどあれだけ注意深く進んだ距離はばかばかしく思えるほど短かった。
 自動ドアが開く。廊下に出る。世界は明るく、空気が新鮮に感じられた。
 温度が上がっているという1-Cへ。異常があるのなら、中を確認しておく方がいいだろう。
 一応、少し注意して、ドアが開くときには陰に隠れて内部の様子を覗いた。
 暗闇から生暖かい空気が溢れ出てくる。途端に甘ったるい匂いに包まれた。庫内の温度は華氏百度を超えているだろう。それにしても、この匂いはなんだ。
 内部に一歩入る。
 照明のスイッチを入れるとオレンジ色の光が柔らかく光る。
 なんだか空気が淀んでいる気さえする。
 足を進めようとして、滑ってバランスを崩しそうになる。床が濡れていることに気がついた。
 どのコンテナにも「低温運搬」と大きくラベルが貼ってあり、内容物はアイスクリームとある。有名なブランドのロゴがあちこちに書かれていた。
 床の粘度の高いぬかるみは、高級なアイスが溶けてしまったなれの果てというわけだ。
 こんな状況だというのに、まず心に浮かんだのはもったいないということだった。そして、この被害に関して会社から下される処分について思うと、ちょっと憂鬱になった。
 かなりの範囲に渡ってアイスの海が広がっている。
 次の瞬間、いまはアイスのことなど気にしている場合ではないと思い知らされた。
 倉庫の中央で誰かが倒れている。
 慌てて駆け寄ろうとして、また滑りかけた。
 慎重に近寄り、うつぶせに倒れ込んでいるその体をひっくり返す。
 クォート・ウィーゼルだった。
 赤と黒のチェックのシャツに細いジーンズ。私服のままだった。まだ固まっていない血がアイスに混じって少しずつ広がる。殺されて間がないということか。
 ため息が出た。
 これで人数が揃ってしまった。
 わたしと船長のギリスだけが残っており、他の四人が死んでいる。
 生存者が他にいれば、なんとか力を合わせて頑張ろうと思ったが……
 先ほどのホワイトの助言によって少しは明るい気分になっていたのが、地に叩き落とされた感じだ。
 このメンバーの中ではそれほど親しい間ではなかったが、仕事中にこんなところで命を落としたことを思うと、やりきれない気持ちになった。
 せめてこの不自然な体勢だけでも直してやろうと服を掴んで体を転がした。そのとき、身体の下になっていた腕が露わになり、その手が何かを握っているのが見えた。
 アイスによる被害を被(こうむ)っていたが、間違いなかった。
 小さな銃だ。
 弾倉を確認すると、発射されているのは一発だけで、残弾は十五。もしかすると、ギリスを撃ったのはこの銃だったかもしれない。使用可能であることを示す緑色のLEDが点いている。希望の光が見えた気がした。
 わたしは1-Dの倉庫に戻り、操縦室の様子を調べた。
 ギリスは座り込んで、完全にうつむいていた。寝ているようにしか見えない。
 そして、椅子には相変わらず後頭部だけの誰かが座っていた。いまではそれが機関長のノエルだとわかっている。
 
 
 静かな廊下を、武器を構えて歩く。
 宇宙船という無機質な、厳重に外部と遮断された空間。それが生み出す冷たさや頼もしさをわたしは知っている。壁を一枚隔てた向こうの、虚無の広がる世界を知っている。どれだけ我々が無力か、人の営みが小さなものかということを知っている。
 我々は星をちりばめたこの永遠の夜空に包まれ、いろいろなことを感じとってきた。
 それが、宇宙飛行士であるものとそうでないものの差だ。
 そう思っていた。
 ギリス船長はこれといって特徴のない、真面目であることが当然のようだと感じさせる人だった。皆が信頼を寄せるのはまさにそういった人物だ。寡黙で、必要な時には常に的確な判断を下し、目には力強さと知性を宿していた。
 若く生意気な派遣のクルーであっても我慢強く付き合ってくれる大きな器、胆力を備えた人間だった。
 何故だ。
 わたしは汗で湿った手を腰の辺りで拭うと銃を構え直した。グリップがアイスクリームでべたついているのが気になってしょうがない。
 銃を頼りに船の中をうろつく時がくるとは思ってもいなかった。
 彼の行動の理由が知りたかったが、それを聞く余裕はきっとないだろう。
 理解するチャンスは永遠にないのかもしれない。
 このチームで彼は何度荷物を運んだろうか。
 もうそれもできないことだ。
 この任務が終わった後、わたしはもう一度宇宙船に乗りたいと思うだろうか。
 睡眠装置でゆっくりと眠れるだろうか。
 わからなかった。
 地球に帰りたい。
 その想いが強烈に迫ってきた。
 自分の死。すべての感情の突然の終わり。
 こんなことなら先月の休暇に故郷へ帰っておくのだった。姉や妹、姪の顔を見ておけばよかった。とっとと母の髪とブローチを汚染された海へ撒きに行けばよかった。
 ここは後悔するにはあまりに遠い場所だ。
 気を抜けば底なしの恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。
 
 
 緩やかに弧を描く通路を進む。やがて二階の操縦室へ向かうタラップが見えてきた。
 足を止める。
 誰かが、梯子の下で倒れていた。
 その姿は船長のものではなかった。
 身動き一つしない。
 どうやら死んでいるようだった。
 もうそんな光景にも慣れたと思ったが、何かひっかかるものを感じる。
 タラップの上の様子に気を配りながら、船内スーツを着た死体の顔を確認する。
 機関長のノエル・ロゼだった。
 眩暈がする。
 違和感を抱いた原因をようやく悟った。自分の頭の回転が鈍っていることがショックだった。
 ここにあるのはおかしいのだ。
 ノエルは操縦室の席に座って死んでいるものだと思っていた。
 探偵の振りをするまでもなかった。単純な引き算のはずが、まるで答えが合わない。
 もしかして、わたしがモニタの前を離れた後で、ギリスが死体をここに放り出したのかもしれなかった。
 だとしたら、彼は起きていることになる。
 現場を細かく観察することだ。
 ノエルの様子を見る限り、まさにここで撃たれたという感じだ。なにしろ伸ばされた右手でしっかりとタラップの一番下の段を握っているのである。試しに指を開こうとしたが、もう固くなっていた。
 どういうことだろう。
 ゆっくりとタラップを登った。
 丸い、煙突のような穴をあがっていく。
 銃はいったん口にくわえた。片手だけで音をたてずに登るのは難しかったからだ。アイスはふき取ったと思っていたが、銃把は少し甘くて気持ち悪かった。
 タラップは操縦室の隣の小さな部屋に続いていた。間にドアはなく、アーチ形に切り取られた壁があるだけだった。
 床から頭を出してそちらの方を伺う。
 角度が悪かったが、アーチの左側に足が見えた。
 動かない。
 慎重にタラップを登り切って、銃を右手に、這うようにして進む。
 じりじりと、操縦室の方へ近づく。
 そのとき、何かが光ったのに気がついた。
 それは操縦室の床にある小さな鏡だった。折り畳めばポケットに入るやつだ。おそらく、いつも身だしなみに気をつけていたノエルの所有物だろう。それが中途半端に開いて床の上に落ちており、天井の照明を反射させたのだ。
 一歩踏み出す。
 次の瞬間に鏡がそこにある意味がわかった。
 出し抜けに、足が見えている側とは逆の方から、黒い影が飛び出してきた。
 わたしは銃を撃った。
 二度、乾いた音がして、ギリスは床に崩れ落ちた。
 見開いたままの目の焦点が一瞬わたしに合ったような気がしたが、すぐにうつろになった。
 もう動かない。二度と。
 わたしも動けなかった。撃たれてはいない。単に腰に力が入らないだけだ。
 戦いは終わったのだ。
 
 
 しばらくして、ようやく辺りを見る余裕が出てきた。
 見えていた足はズボンと靴を並べて置いてあるだけの偽装だった。単純だったがわたしはすっかり騙されていた。気がつくのがあと三秒でも遅かったら、やられていただろう。
 ギリスの手にはわたしの拳銃と、医療用の細い糸が握られており、その先はタラップの方へ延びていた。どうやら、段を上れば判るように仕掛けがしてあったようだ。まるで気がつかなかった。そして、床に置いてある鏡で侵入者の様子が見えるようにしてあったのだ。さらに、操縦室の後部にはサブモニタがあり、わたしが映っていた。自動反応モードになっている。つまり、ギリスはこれで船内の廊下を見て、わたしの動きを確認していたのだろう。考えてみれば、こちらがやっていたことを彼がやるのは当たり前だ。
 わたしが倉庫で見ていたのは、すべて彼の演技だったということか。カメラで見られていることを承知の上で、返り討ちにする作戦を練っていたのだ。
 横むけになった彼の背中にはわたしが撃ったのとは別の、かなり大きな血の跡があった。負傷は演技ではなかったようだ。ここまで傷を負いながら、恐ろしい執念だ。彼には彼の物語があったのだろう。
 わたしがすべて終わらせてしまったが。
 あのとき、天井の照明が鏡に反射しなかったら、いま床に横たわっているのはわたしだったかもしれない。

第4回に続きます

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