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短編小説【流れる星に思うこと】(3452文字 無料)

「ねえ、逆立ちってできる?」
 わたしは双一郎に聞いた。
「できないよ」
 そう思いました。
「もしかして運動が苦手?」
「そうだなあ。一般的に負の方へ突出しているという見方ができるだろうね」
 そういう言い方すると思いました。
 いまは放課後。教室にはわたし達だけだった。
 校庭から野球部の雄叫びが聞こえている。
「なんでいきなり逆立ちの話?」
「いま幼なじみの話をしてたでしょ。あたしっていまでも十分に繊細なんだけど、小学生の頃はすぐ泣く子だったの。あらゆることが心配のタネ。ほら、自分の食べてる肉が鳥や牛や豚のものだって分かったときってショックじゃなかった? 幽霊の話とかも本気にしたし。いずれ南極の氷が溶けて世界中が海の底っていうのもずっと心配してた。小学生の頃って怪しい噂があっという間にクラス中の話題になったりするでしょ。一人で考えているうちにそれがどんどん大きな不安のカタマリになって、学校からの帰り道とかに泣けてきちゃうのよ。あたしったら、なんていたいけな少女だったのかしら」
 さすがにいまはそんなことはないけどね。
「でね、コウちゃんっていう、近所の男の子がいて、泣いているとよく慰めてくれたの。あたしが何を怖がっているのか説明すると、コウちゃんは相槌を打ちながら『そりゃ大変だ。大事件だ』って騒ぐだけなんだけど、なんかそれで安心できたの」
「いい話ですなあ。事件を解かないけど、依頼人の不安を取り除く探偵ですな」
「さてはまじめに聞いてないな。確か悩みを解決してくれたこともあったよ。コウちゃんも運動が得意そうな子じゃなかったんだけど、あるとき泣いていたら『よし、俺にまかせろ』って逆立ちしようとしてくれたの。何度も失敗して、結局だめだったけど。でもね、それを見たときにすごく驚いて、あたしのためにそういうことをしてくれる人がいるんだと思って、なんだか安心したのよ」
「思えばそれが淡い初恋でした」
「勝手なことを言ってる」
「いや、京子ちゃんの気持ちを代弁してみました」
「うーん。言われてみればそうかも。こっちに引っ越してくる前にもう一度会いたかったなあ」
「で、なんで逆立ちを見て安心したの?」
「……忘れた。あれ、なんでだろ」
 わたしは考えた。
 思い出せない。
 そもそもコウちゃんってどんな顔だったろうか。
 人はこうして色んなことを忘れるんだ。
 
 
 天文学倶楽部という怪しい部活があって今度『流星群観測しナイト』という、ちょっと微妙な名前の催し物が行われるらしい。夜遅くまで学校に残って流れ星を観測するという、内容はいたってまじめそうな企画。
 理科室の扉に貼ってあったチラシを見て、このイベントを冷やかし気味に話題にしたら、双一郎が「面白そうだから僕も参加する予定だよ」などと言う。しょうがなくわたしもつきあってやることにした。
 その日は一度帰宅して夜の八時に集合。寒さが身に染みる季節である。交渉の結果、父に送迎してもらうことになった。
 こんな時期のこんな時間に、という気がしないでもないが、流星は人の都合なんぞお構いなしなのだ。
 割と地味な存在である地理の先生が顧問として参加していた。生徒は十五人程度。夜の校庭に私服で集まるという珍しいシチュエイションで、なんか新鮮な感じがした。先生が最初にぼそぼそと小さな声で注意すべき事を述べた後で「まあ、今回はこういう催しで、他の先生には安全を十分に考えているのかとか、万一のことがあったらどう責任を取るのかとか色々と言われたけど、アリバイ作り的にここで注意しておきます。暗いから足下に気をつけて。怪我はごまかせる程度のものにとどめておいてください。そんなことより、みんなにわかって欲しいのはね、天体のスケールの大きさを考えたら、正直わたしや皆さんの生活のことなどちっぽけなものです。気分一つでとてつもなくスケールの大きなもの、あるいは目に見えないほど小さなものに触れることができる、それが科学であり、知識であるということを知ってください」と言った。わたしは初めてこの先生の人としての気持ちに触れたように思った。
 夜間の照明が直接当たらない校舎の陰に望遠鏡が三台置かれていた。中心となっているのは天文学倶楽部の部員で、星座や惑星などに関する説明を滔々(とうとう)としゃべっている。聞いてみると部員はこの三人だけで、細々と活動しているそうだ。わたしが所属している推理小説研究会の現状を思うと他人事ではない。頑張ってほしいものだ。
 やがて流星が見え始め、とぎれとぎれの歓声があがる。
 ピークは夜中だそうだけど、さすがにそこまで待っていられない。この集まりは二時間ほどで解散する予定。
 最初、なかなか見ることができなかったが、ついにわたしも夜空を横切る一瞬の細い輝線を見ることができた。小学生の頃に見たのが最後だから、数年ぶりの流れ星だった。
「見た見た見た? いまの」
 双一郎は顔を空に向けたままうなずいた。
「小さかった」
「人の流れ星にケチつけるのやめてよね」
「所有権を主張するなら名前書いておいた方がいいよ」
 という台詞が終わらないうちに一段と大きな輝きが空を横切った。燃える球のようだった。みんなの驚きの声が低く響く。
「おお、すごいすごい」
 双一郎が珍しく単純に喜んでいる。
「いまのを僕の流れ星にしよう」
「あなたこそ冷めないうちに名前書いておいたら。あっちの方に落ちたみたいよ」
 結局、それが一番豪華な流星で、あとは地味なものばかりだったが、それなりに楽しいイベントだった。
 あっという間に解散の時間となり、みんな首が痛い痛いと言いながら帰っていった。わたしは学校の東門を出たところにある公衆電話から家に連絡した。
 門のところで父を待つ間、双一郎と話をする。彼は自転車で来ていた。
「あたしね、子供の頃、流れ星って本当に空の星が流れてしまうって思ってた」
「ああ、僕も最初はそうだった。だって名前が名前だからね。そのうち夜空が寂しくなるだろうって考えてた。最初に名付けられたときには、まだ正確なことがわかっていなかったんだろうけど」
「でしょ。しばらく怖かったもの。月がいつか落ちてくるんじゃないだろうか、太陽がなくなったらどうしようか、そもそも地球は大丈夫なんだろうかって」
「いつか言ってた泣き虫な頃の話だね。それにしても壮大な心配だ」
「小学生のあたしは純粋だったんですねえ。実は幸せな時期だったとも言えるかな」
「純粋というものに無知は必要条件だろうか」
「幸せにとってはそうかも」
「なるほど。幸せの定義が人によって違うってことか」
 おっ、生意気なことを言う。
 やがて遠くから車のヘッドライトが近づいてきた。
「お父さんかな」
 わたしは道路からよく見える場所へ移動する。
 まだ流れ星が名残惜しいのか、双一郎は空を見上げている。
「杞憂(きゆう)ってあっただろ」
 唐突に古典の勉強か? あまり得意ではない。国語に関連しそうな項目で自信があるのはミステリだけだ。
「えーっと、中国の皇帝の話だっけ。天が落ちてくるのを心配するっていう」
「うん。この話を聞いたときに、アトラスがいたらって思わなかった? 天を支えたっていう、ギリシャ神話に出てくる巨人。そうすれば皇帝も安心できただろうね」
「そうそう、かわいそうなアトラス。小学校の頃に先生に聞いたなあ。どうやって支えていたのか、すごく不思議だったけど」
「京子ちゃんが気にしていたのは丁度その逆だよね。星である大地が流れてしまうっていう無駄な心配」
「無駄で悪かったわね」
「昔の世界地図ではアトラスが地球を支えている絵が描かれてたらしいよ」
「天だけじゃなくて大地も支えていたってこと?」
「とにかく世界をその一身で守っているというイメージなのかな」
「ずいぶん大変そうだけど」
「大変なのはそんな心配を抱えている小学生の女の子だろ」
 車がわたしの前で止まる。
 父に礼を言いながら助手席に乗り込む。
 双一郎が手を振っている。
 ふと、気になったことがあったので、わたしは窓を開けた。
「ねえ、もし双一郎だったら、そういう子供をどうやって慰める? ちゃんとした理屈を説いてもわかってもらえそうもないとしたら」
「そりゃ決まってるだろ」
 彼はちょっとだけ微笑んだ。
「その子の前で逆立ちをするんだ。僕が地球を支えているから大丈夫だってね」
 その言葉に、情景が蘇る。
 公園の鉄棒。砂場。滑り台。
 見上げた広い空の色。
 
 不意に、わたしはコウちゃんの顔を思い出した。


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