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雪の降る夜 後半(7340文字 無料)

前半からの続きです。


わたしの頬に小さな雪片が舞い下りる。
再び雪が降り始めていた。
わたしは闇を凝視する。足音はゆっくりと近づいている。
誰が来るのかはわかっていた。
やがて、人影が浮かび上がり、わたしの目の前に姿を現す。
「こんばんは。香苗ちゃん」
「こんばんは」
わたしが夜中に山荘を抜け出れば彼が追ってくるだろうと予想はしていた。別に山荘で話をしてもよかったのだが、やはりここの方が相応しいだろう。
寒い。わたしはポケットに手を入れた。
「こんな時間にどうして?」
「叔父さんこそ」
彼は笑った。その笑顔が一瞬昔を思い出させる。
「ちょっと君に聞きたい事があってね」
「ちょうどよかった。わたしも叔父さんに聞きたい事があるんです」
わたし達は暗闇の中で対峙したままお互いの目を見ていた。
叔父が肩をすくめる。
「じゃあ、まず君からどうぞ」
「そうさせてもらいます」
わたしは息を吸った。気を引き締める。
「クゥシェットの死について、気になっていた事があります。それは些細なことですが、三人にとっては非常に重要な問題です。三人というのはもちろん、わたしと叔父さんと、そしてクゥシェットです」
叔父がうなずくのを見てわたしは続けた。
「十年前の結論でわたしがまるで納得いかなかったのは、自分の血に驚いたクゥシェットが気が動転して外へ出ていった、という点なのです。わたしは彼女に関して、自分の血を見ると座り込んで泣き出すという反応しか知りません」
そしてここからが重要な点だ。
「そこでわたしは思ったのです。クゥシェットは本当に自分の意志で、自分の足でこの場所に来たのでしょうか?」
叔父は動かない。
静かだ。雪はすべての音を吸収してしまう。それはきっと雪の結晶が複雑な形をしているからだろう。雪でできた無数の枝を繰り返し反射するうちに空気の振動は小さくなっていくのだ。わたしのこの言葉は叔父に届いているのだろうか。
「もちろん、足跡を見れば雪がやんだ後で彼女がここに来たのは明白と思われます。でも、わたしと叔父さんが見た足跡は本当にクゥシェットのものだったのでしょうか」
「警察が調べたじゃないか。間違いなくあの子の履いていた長靴の跡だという結論が出たんだ」
叔父が感情のない低い声で言う。わたしはうなずいた。
「そうです。十年前にそういう結論になって事件は収束しました。でも、クゥシェットがこの場所に倒れていたとき、つまりわたし等が彼女を発見したとき、彼女がはいていた長靴は本当に足跡をつけたものと同じ長靴だったのでしょうか?」
ミステリを読むようになって、わたしはあのときの状況に対してもいくつかの仮説を思いつくようになったのだ。
「クゥシェットはこの場所から山荘に運ばれ、病院へ連れていかれました。このときもう長靴は脱がされています。そうなると後で警察に『彼女が履いていた長靴』として提出されたものが、この場所で履いていたのかは誰にも確かめられないのです」
「わたしが保証しよう」
「でも、こういうことも考えられませんか?誰かが倒れているクゥシェットを階段の下で発見する。意識のない彼女に長靴を履かせ、抱きかかえて外へ出て行く。外には雪が降っています。しばらく歩いてここへたどりつくと、道の真ん中に彼女を放り出す。雪はもう止んでいます。あるいは雪が止むまで待ったのでしょう。
その人物はゆっくりと足跡をつけてながら逆向きで歩き始めます。腕にわざと傷でも作り、時々血で雪を染めながら、山荘へ戻るのです。階段の下の血痕はともかく、途中にあった血液まで警察は調べたでしょうか?もし調べられたとしても、それが同じ血液型なら、よりうまくいくでしょう。そうして、後でその長靴をクゥシェットが履いていたものとして提出すればいいのです」
スプーマムが人と同じようにしゃべるのは、人の血を分け与えられた場合だけだ。もちろんクウシェットは叔父の血をもらっているから、その区別がつかないのではないかとわたしは疑っていた。
「そして、決定的に不自然な現象があるのです。あのとき、雪の上に足跡はとても鮮明に残っていました。つまり、雪が止んでから足跡がつけられたということを意味しているはずです。それなのに、わたしが見たクゥシェットの体はかなり雪に埋まっていました……雪が降り止んだ後であそこまでたどり着いて力尽きたとしたら、これは実に不思議なことです。その点を警察が追求しなかったのは、発見者がそこまで証言しなかったからです」
長い沈黙。
そうだ。わたしの話した内容の大部分はリアリティを持たないことかもしれない。予想のつきにくい山の天候をあてにしてそんな策を弄するなんて馬鹿げている。雪が降っていたのは偶然だろう。クゥシェットが階段から落ちたという時にそんなことが咄嗟にできるわけはない。
もちろん、クゥシェットの事故が仕組まれたものであれば話は別だ。
わたしは冷静さを保とうと大きく深呼吸をした。
やがて暗闇に声が響く。
「君は本気でそんなことを思っているのか?わたしがそんなことをしたと」
「考えたくありません。でも、傷ついた彼女が外へ出て行くでしょうか?なぜ安らかな顔をしていたんでしょうか?それに、普段お酒を飲まない叔父さんがなぜあの日に限ってお酒を飲んでいたのでしょうか。それは大それたことをやってしまった自分を誤魔化すためではなかったですか?なぜ叔父さんは彼女が階段から落ちる音に気が付かなかったんですか?わたしの疑問に答えてください」
雪が少し激しさを増した。
「クリスマスイブにワインを飲むのは妻との習慣だった。妻が死んでからは彼女に話しかけるため。そしていまではクゥシェットと妻に話しかけるために残された習慣だ……道の途中の血痕については警察がちゃんと調べた。間違いなくクゥシェットのものだよ。わたしの血液も採取された。わたしの言葉が信じられなかったら警察に問い合わせてみるといい。いまさら答えてくれるかは知らんが。
クゥシェットが落ちた音に気がつかなかったのは迂闊(うかつ)だったが、玄関と居間の間のドアは寒さを防ぐために隙間もなく厚く丈夫な造りになっているからだ。わたしがそのことでこの十年間どれだけ悔やんだことか。それからクゥシェットの履いていた長靴には彼女の血が付いていた。階段から落ちたクゥシェットが靴を履く前に自分の血を靴下に付けたらしくてな、それがかすかに長靴の内側に残っていたということだ。つまり、血を流したクゥシェットはずっとあの靴を履き続けたということだよ。これでも君は足跡を疑うかね?」
それがもし本当だとしたら、わたしの考えはことごとく間違っているだろう。
そしてわたしはそれを望んでいる。
「なぜ、警察の調べた結果をそんなに詳しく知っているんですか?」
乾いた笑い声。
「なぜって、十年前にクゥシェットが死んだときにわたしは警察にしつこく食い下がったんだ。『クゥシェットの死は事故じゃない』ってな。あの日誰かが玄関から入ってきてクゥシェットを連れていったのだと。そう思った理由は君と同じだよ。怪我をしたクゥシェットが外へ出ていったことに納得がいかなかったからだ。警察の人は一つ一つ状況を裏付ける証拠を説明してくれたよ。そしてうなずくしかなかった。クゥシェットは間違いなく自分の意志で外へ飛び出し、この場所へ来た。その理由だけがいまだにわからないままだが」
今度はわたしが言葉を失った。叔父の行動も当然だ。叔父にとってクゥシェットは『仲のよい友達』ではない。亡き夫人と二人で育てた『我が子』だったのだ。叔父がどれほどクゥシェットを可愛がっていたか、それを見ていながらわたしはなんという考えに取り付かれていたのだろう。
「申し訳ありませんでした」
わたしは謝った。それしかできない。
叔父はうなずいた。
「謝ってもらうことはない。実はわたしも同じような考えに取り付かれていた。理由は君と同じさ。クゥシェットの落ちる音が君には聞こえたはずじゃないか。わたしは君にこう聞くつもりだったんだ。『そもそも君がクゥシェットを階段から突き飛ばしたんじゃないのか?』ってね」
不意に強い風がわたしを包んだ。雪の流れが一斉に乱れ、また元に戻る。叔父の声が白い世界に吸い込まれる。
「それなら脅えたクゥシェットは君から逃れるために家の外へ逃げたかもしれない。何か怖いものがあれば……こんな馬鹿な思いが十年間に何度か浮かんだ。でも君のいまの話を聞いてようやくわかったよ。クゥシェットのことをいまだに思ってくれている君がそんなことをするはずがないとね」
「わたしはあのとき眠っていました……」
不意に強い風が吹き、雪が舞い踊る。記憶がその向こうで揺らめく。
目を逸らし続けていた。
叔父さんを疑ったのも、なんとかして真相をわたしから関係ない場所へ遠ざけたかったからだ。
それは自分に対する欺瞞に他ならない。

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トイレから戻ってきたら驚くぞ。
廊下の正面の壁にお面とシーツを下げてわたしは満足した。少し離れてはいるが、これで階段を登ってくると最初にこのお面の恐ろしい顔が目に入る。クゥシェットをびっくりさせようとして家から持ってきたのだ。雪だるまにはつけられなかったけど、ここで役にたちそうだ。
クゥシェットの驚く顔を楽しみにしていたのに、その後でテレビを見ていたわたしはお面のことなど忘れてしまった。
クゥシェットはなかなか戻ってこなかった。風呂に入っているのだろうか?あるいは叔父さんの所に居るのかもしれない。いつかも彼女はトイレに行った後でわたしのことなど忘れてしまったのか、自分の部屋で寝ていたことがあった。
そんなことを考えているうちに、やがてわたしは一人で寝てしまった。
十一時頃に、今度は自分がトイレに行きたくなって目が覚めた。わたしは普段から夜中に目が覚めてしまうことが多い。この山荘では一人じゃ恐いのでクゥシェットを起こしてトイレについてきてもらうことにしていたのだが、彼女の寝息が聞こえない。
下のベッドを覗いてみると丸められたシーツがあるだけで誰もいなかった。
わたしは部屋を出て勇気を振り絞って階下のトイレに行こうとした。階段のところでふと先ほどの壁を見るとお面もシーツもなくなっていた。もしかして叔父さんが片づけたのかもしれない。だとすると怒られることになるかもしれなかった。
そんなことを気にしてながら、わたしはゆっくりと階段を降りていく。叔父さんにクゥシェットのことを聞いてみよう。もしかして、一緒に寝ているのかもしれない。それならそれで構わない。
一番下に降りたところで気が付いた。
階段の横、電話台の横に床にシーツとお面が投げ捨てるように落ちていることに。
どうしてこんな所にあるんだろう。風で剥がれたのかも。
わたしはその意味を深く考えずに用を足すと部屋に戻ってお面とシーツを片付けた。もしクゥシェットが見ていなければ、また後でびっくりさせることができるかもしれないからだ。
それから、もう一度、部屋のベッドが空なのを確認して叔父さんにクゥシェットのことを聞きに行くことにした。

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「……その可能性に気が付いたのは一週間後です。もうクゥシェットのお葬式も終わって、わたしは家に帰っていました。気が付いてしまったその時からずっとわたしは脅えていました。生まれた頭の中で疑問は何度も繰り返されました。
もしかしてクゥシェットはわたしの仕掛けたお面に驚いて階段から落ちたんじゃないかって。
だけど、なぜ外に逃げたのかはわからなかったので、そんなはずはないと自分に言い聞かせていたんです。でも、いまの叔父さんの言葉を聞いて納得することができました。
クゥシェットはお面に驚いて階段から落ちたんですね。そして、怪我をしながらも、お面とシーツのお化けがいる建物の中から必死に逃げようとして外へ……」
これで長い間のわだかまりに判決が下された。わたしは有罪だ。
雪が勢いを増し、狂ったようにわたしを包む。いや、狂っているのはわたしだ。このままこの風に切り裂かれて分子よりも細かく小さな粒になって消えることはできるだろうか。
「いや、それは違うな」
叔父さんの力強い声でわたしは我に返る。
「そのお面のことはいま初めて聞いたが、だとしたら、君の考えは間違っている。いいか、君が発見したときは階段の下に落ちていたんだろ?その事実を忘れてはいけない。お面はどうやって移動したんだ?冬の時期に建物の中に隙間風など忍び込んでくるわけはないから、風で落ちたとは考えられない。わたしもそんなお面の存在には気がつかなかったから、それを運んだのはやはりクゥシェットだろう。壁にかかっているシーツやお面を手に取るためには階段を上り切ったところから二三メートルは進まなければならないからね。君の仕掛けたお面に驚いて、クゥシェットが階段から落ちたとしたら、お面を動かす人がいなくなるじゃないか」
そうだ。確かにそうだ。わたしの弱い心はその考えに飛びついた。
「……わたしの考えるところではね、クゥシェットの奴は確かにお面を見たんだと思う。少しは驚いたかもしれない。どちらにしても君がやったことに気が付いて仕返しをしようと思ったんじゃないかな……そして君が驚くような場所に仕掛けようと思ったんだ。階下のトイレの扉にでもね」
もしそうだとするとクゥシェットにしてはまれに見る冴え方だ。きっとわくわくしながらやろうとしただろう。とっておきの仕返しを、嬉しそうな顔をして一人きりで仕掛けようとする姿が浮かぶ。
「そして足を踏み外したんだ。シーツの端でも踏んだかもしれない。でも、もうそれは君の責任ではない。いつでも起こり得る事故だ。確かに残念なことだが気にしてはいけない。クゥシェットにとって君と過ごす日々がどれほど幸せだったか」
叔父の視線がもう遠い過去を追う。
「クゥシェットは学校で虐められるとよく逃げ出していたよ。そんなときには崖下の看板の裏に隠れていてね、わたしが探しにいったものだ。君が来るようになってからは学校でもしゃべるようになったし、看板に逃げ込むことも少なくなった。本当に香苗ちゃんには感謝している」
雪ばかりが積もる。
階段から落ちた後、彼女は自分で外へ出ていった。何故だろうか。疑問は最初に戻ってしまった。わたしの中でゆっくりと笑顔が蘇る。
十年たってわたしは初めてクゥシェットに質問をする。
どうして?
彼女はきっと笑顔で答えてくれるだろう。でもいまのわたしにはその声が聞こえない。
叔父がしゃべり続ける。
「階段を落ちたクゥシェットがなぜわたしの所に来なかったのかはわからない……やはり、警察の結論の通り、気が動転していたのだろう。出血はかなりあったはずだが、外へ逃げさえしなければただの怪我ですんだのに」
叔父は大きくくしゃみをした。
「もう戻ろう。このままでは二人とも遭難しそうだ。我々がいなくなったら、クゥシェットの記憶も消えてしまう。雪に埋めるのは過去の辛い事件だけにしよう」
その言葉が、わたしに何かを思い出させる。
「君が十年たってもクゥシェットの友達でいてくれて嬉しかった」
「友情が本物なら年月は関係ありません」
そう信じたいのだ。わたしは。
「……ありがとう」
「わたしはもう少し残ってから戻ります」
「そうか……無理はしないようにな」
足音が風に消え、わたしは森の中に完全に一人になった。夜の暗闇がわたしを厚く包み込む。
クゥシェット。さまざまな思い出がわたしを包む。懐かしい言葉や動作。
風が耳元を吹き抜ける。
ようやく、クゥシェットの声が聞こえた気がする。
わたしにはもう解ってしまった。
彼女の行動の意味が。

夜の地に積もっていく白い結晶。その上に仰向けに寝転がって全身で雪を受け止める。
空を仰ぐ。ああ、見えるのはすべて落ちてくる雪ばかりだ。あの日雪さえ降っていなければ、クゥシェットは助かったかもしれない。それはもう無意味な仮定だけど。
クゥシェットが不注意で怪我をするとわたしはよく叱っていた。
へたをすると死んでいたよ。親より先に死ぬのはものすごい親不孝だ。親不孝というのは叔父さんがすごく悲しむことなんだよ。
そうだ。彼女はそれをひどく恐れていた。
階段から落ちた彼女は自分の頭から血が出ているのを知ってもうだめだと思ったのだろう。あれだけ血に脅えていたクゥシェットのことだから、自分はもう死ぬに違いないと確信したのだ。そうなるとわたしが日ごろから言い聞かせていた『ものすごい親不孝』になってしまう。
それだけは避けなければ。
クゥシェットが考えたのは何とか事故を隠そうということだったに違いない。
雪だるまを壊してしまったときのように。
『雪はね、何もかも消すよ。手品みたいだって父さんが言ってたよ……』
あの日、雪だるまが置いてあった部分に盛られた小さな雪の山は「何もかも消す」ためだったのだ。地蔵岩が雪によって隠されたように。雪だるまを壊してしまったこと、さらに雪だるまの存在さえも消すために、彼女は小さな雪の山を築いたのだ。あの時、わたしがだまされたふりをしたので、クゥシェットは雪のおかげで見事に隠しおおせたと思ったのだろう。
そして今度は怪我をしたことを隠さなければならない。自分が死んでしまうという親不孝を隠さなければならなくなった。
彼女は外へ出て行く。雪が積もっている。最良の場所は例の秘密基地だろう。
しかし、凍えてきた彼女はここで力尽きて倒れた。最後の力を振り絞って自分の体を雪に埋める。そうすれば何もかも無かったことにできるに違いないから。
あの安らかな顔のまま、彼女は冷たくなっていった。
わたしを怨むこともなく逝ってしまったに違いない。
怨まれることもなかったわたしを、わたし自身は許せない。
雪が降る。絶え間なく。わたしの目にも鼻にも口にも喉にも胸にも脚にも両手にも。
わたしはこのままここにいよう。
クゥシェットの安らかな顔が忘れられない。
雪よ雪よ。何もかも消してくれ。
手品のように。山も川も木も。
わたしの感情の中の歪んだ部分。自分を哀れだと思う卑怯なところも。

あなたのことを思い続ける痛みも。

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