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あの日々の延長線上に。

この季節になると必ず書かなきゃいけないことがある。
色んな芳香剤が混ざって香る夏の風、緑に点灯するエアコンのにおい、澄んだいつもの散歩道、すれ違う見知らぬひとびと、セブンの蒙古タンメン。

なんだかんだ必死で中高6年を駆け上がって、それなりに自分の成すべきことにこだわりながら、できる限りのことをやった、でもそこに「意味」があったのかはわからなくて、そんなことを考える余裕もなかった、そんなあの日々の延長線上にいまの自分はいる。

生きることは、「意味」を追い求めることだ。
僕たちは意味のないことを嫌う。無駄だからだ。
利益のないこと無駄なこと意味のないことは排除する。

でも、その「意味のない」には本当に意味がないのか。
自分、親、仲間、人々の考える無駄は、本当にムダなのか。逆に一般的に「意味がある」と思われてることには本当に意味があるのか。

文化祭を行う意味はあるのか、失敗はムダなのか、他者と関わる意味はあるのか、見知らぬ人を助ける意味があるのか、労働に意味があるのか、楽しいに意味はあるのか、全力に何かに取り組むことって意味あることなのか、あなたの存在に「意味」はあるのか、生きることに何か「意味」があるのか。何かに意味がないとしたら、それはムダということなのか。

意味は、自分で作り出すべきものだ。

宇宙が~とか、地球が~とか、広大すぎるものと比べてあらゆるものに価値がないと思うことは簡単だ。
宇宙に比べたらちっぽけな自分のやることなんて、大したことないんだからやれるだけやってみよう!ってなるならそれでもいい。でも、そこに価値がない訳ではきっと無い、と信じたい。

確かに、ほかの誰かにとって、自分が起こしたある1つの行動は意味がないかもしれない。
時にその行動はムダだと思われるかもしれない。でも、そのムダは、ほかの誰かが勝手に考えているただの1つの意見に過ぎない。

本当のところ、あなたが必死に考えて導き出した行動、勇気を振り絞って生み出した作用、トラウマになるほどの失敗に、「意味がなかった」かなんて誰にも分からない。

もしかしたら今は意味がないように見えるけど、数年後、誰かにとってそれは意味あるものになってるかもしれないし、なってないかもしれない。

だからこそ、僕たちは、自らの意志でこの世界に価値を生み出し、その価値を追求する行動をしていくべきで、「意味のある」と思える日々の延長線上へと歩き続けていかねばならない。

失敗にだって、ふとした一瞬にだって、そう思える限りは自分なりの意味がそこに宿る。自分があの時よりもでっかくなれたという実感を得るには、「意味のある」行動の積み重ねが必要だ。わからないことばっかりな世の中だけど、「ムダ」なことに目を泳がすのではなく、「意味」を作り出しながら生きていかないといけない。

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