<ニコンサロン> 吉江淳 写真展「出口の町」

人間にとっての貴重であるとか、価値があるとは何だろうか。人間は数が少ないものが貴重であると思っているのだろうか。私自身も本当にそう思っているのだろうか。常々そう思っている。

吉江淳氏の写真展「出口の町」に行った。

SNSで作品の画像をひと目見て、これは必ず行かなければならないと思った。会場であるニコンプラザ東京は新宿にある。幸い現在の私は、思い立ったら電車ですぐに行ける、そんな便利な場所に居住している。

ある場所に対して「何もない」という言葉を使うことがある。私自身も何気なく、どこかへりくだるような気持ちで自分の故郷に何もないと言ってしまいがちだ。私が何もないという言葉を使うとき、事実として何もないというより、文化的であるとか娯楽があるとか、人工物もしくは自然の景勝が他よりも優れているとか、人間の居住に適しているとか、そういった特筆すべき価値や競争から外れているという認識で使っている。
この写真展はそんな「何もない」とされる町の、何もない風景が収められた作品が展示されている。

私は作品が撮影された場所を知らない。それでも、その地を踏みしめた時の感触を知っているという感覚が、私の体に呼び起こされた。「その場所にいるかのような」であれば仮想現実であり、私がその場所にアクセスすることになるのだろう。しかし私が作品から受けた感覚はそうではなく、私自身の記憶に結びついた特定の場所に、作品の方からアクセスされているという感覚だった。馴染みがある、という言い方が適切かもしれない。

自然の驚異であるとか人間の儚さであるとかそういうものではない。土から覗くPPバンドや、おそらくは不純物が混じった水が干上がってできたひび割れ。そうした人間の生活の痕跡は、自然と人工物が混然一体なものだということをただ示し、それが作品に写し出されている。それでひとつのまとまりなのだ。

また、人間の住まう町が、古いものと新しいものがゆっくりと切り替わっていくさまが写真からわかる。いまや役目を終えた古いものだけを切り取っているのであれば、それは最初に述べた貴重さや物珍しさだが、作品の中にはほぼ確実に現役の生活者が写っている。

自然と人工物、そのどちらも顕彰せず、ただそこにある。たとえ写真の中に収められた風景に人は居なくとも、そこには必ず人間の生きる姿が写し出されている。もしかしたら私の作品への向き合い方というのは、作品自体や撮影地に対して思いを馳せず、自分の内面に写してものを見る、不純な見方なのかも知れない。それでも、勇気をもらった。特定の価値に分類されない「何もない」風景が展示されていたからこそ、私は知らない風景から勇気を受け取ることができた。

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