エネミー・ゼロ ―緊張・時間・ハードル―

エネミー・ゼロをクリアした。(2020/07/07)

『インタラクティブ・ムービー』と銘打ち、セガサターン用のタイトルとしてWARPから1996年に発売された『エネミー・ゼロ』。

宇宙船を舞台に、冷凍睡眠から目覚めた主人公・ローラが見えない敵・エネミーの脅威にさらされながら船内を探索するゲームだ。

発売に至るまでの紆余曲折など話題には事欠かない本作だが、それはさまざまなところで語られているのでこの記事では割愛する。

以前から、ゲームがプレイヤーに与える適切な難易度やプレイ時間について個人的に興味があった。
『エネミー・ゼロ』をプレイ中もそれについて考えていて、クリアしてみて思うところがあったのでそれを含めて書いてみる。

『エネミー・ゼロ』は高難易度とされるゲームだ。
実際に自分でプレイして難しいなとも思ったし、それがゆえに十数年クリアしていなかったとも言える。

このゲームが難しいと言われる点は

・敵に触れると即ゲームオーバーになること
・敵の姿が見えず、音の高さや間隔を頼りに前後と横方向の敵の位置を察知する必要があること
・武器である銃の射程距離が非常に短く、3回使用すると所定の充電器で再充電するまで使えないこと
・数学的な謎解きがあること
・セーブ・ロード回数に制限があること

にあると思う。

大別すれば、敵を倒すアクションの難しさと、謎解きのアドベンチャーの難しさの二種類の難しさだ。

自分はイージーモードで開始し、どうしてもわからない時はネットで情報を検索しながら遊んだ。
攻略情報がなければ数学が苦手な自分は謎解きのギミックで確実に詰まっていただろう。

一方でアクション面の方はイージー設定だったこともあってか、幾度もゲームオーバーになったものの楽しんでプレイすることができた。

このゲームは数多くの不自由で成り立っているが、理不尽であるとは思わない。すべてが機能的ではないにしても、その不自由さがゲームのルールを形づくるために意図されていることが理解でき、また物語のテーマにも付随するものだ。

音のみで判断を下し、つねに周囲に注意を払う必要があるエネミーとの遭遇はプレイヤーに緊張を与える。
ゲームデータの保存をするためのアイテム、ボイスレコーダーは使う度にバッテリーが減り、最後にはデータをロードすらできなくなってしまう。
エネミーと出くわすことはゲームオーバーの危険があるということ、すなわちボイスレコーダーのバッテリーが減ることにつながる。
安易に使えないために、どこでセーブをするかがひとつのゲームとなっている。このゲームのセーブとは回数の決められたコンティニューを好きな場所で使える権利だ。
『バイオハザード』シリーズのインクリボンも近いセーブシステムだが、それでもロードができなくなるほどシビアではない。

『エネミー・ゼロ』は同社が発売した前作『Dの食卓』が2時間という時間制限を用意したことを確実に下敷きにしている。

前作は映画の上映時間を意識して2時間という制限を設けたということだが、本作はセーブをさせずに深夜までプレイさせたいという狙いがあったようだ。

また「保存せずどこまでいけるのか」という緊張感を保てることや、消え去ってしまったデータにはもう二度と出会えないということがテーマと合致することもこのシステムをとりいれた理由なんだろうと思う。

プレイヤーからはこのシステムは難しすぎるとされることも多かったようで、後の廉価版やPC版では回数制限のないモードも選択可能になっている。
最初からそれをしなかったのは、そうまでしてそのテーマを見せたかったからなのだろう。

実はこのゲームはプレイ時間の短いゲームで、初見の自分でも5~6時間ほどでクリアした。
短時間でプレイを終えられるというのも緊張感の維持する要素なのだと思う。

その上で考えるとこのゲームのイージーモードというのは、初見でクリアできるかできないかギリギリの難易度で調整されていると感じる。
何度もゲームオーバーになって最終的に自分のボイスレコーダーのバッテリーは100%中19%で、ノーマルモードならばクリアできなかっただろう。

さまざまある観賞物や娯楽にはハードルがあり、ゲームでもハードルが高いと感じるものがある。

映画館へ行き、眠らないように黙って椅子に座る。


遊ぶ環境を整え、自分の思考や反射神経を使う。

自分のペースを見つけ、気持ち悪くならない程度にアルコールを摂取する。

どれもハードルがあって、どうしてもそれを越えられないこともある。

物語や映像が見どころの美しいCGによって描かれるインタラクティブ・ムービーと伝えられればなおさらそのハードルはストレスになるだろう。

では『エネミー・ゼロ』は映像を観るゲームだったのか、といえばそうではないと思う。

自分がこのゲームの映像や物語だけをみてもおそらくあまり面白みは感じなかったと思う。
それはすべてのゲームにおいてそうだ、ということではない。
映像や物語を知るだけで面白みを感じるゲームはある。

『エネミー・ゼロ』はあまりにも自らがゲーム作品であろうという意志が強固で、ゲームシステムが物語に突き刺さっている。
物語と一体となったゲームシステムで構成され、それこそがハードルなのだから、それを下げてしまうと途端に面白みが無くなっていくことを、攻略情報を見ながら自分は感じていた。
逆に攻略情報を見なくても進められる時は自然と物語への没入感が高まる。

いままで散々ゲームをやってきて何をそんな当たり前のことをと思ったが、ここまで腑に落ちる経験はなかった。

だからこそ自分で操作しなければならないこのゲームは難しい。ローラが何を思ったのか、次にどこへ向かうべきなのか。それをシーンから拾えなかったら、または自分の考えと一致していなかったら、ゲームとプレイヤーは分離する。
分離したままでも物語が進むゲームはあるが、このゲームではそこから何を読み取るかが攻略だ。
仕掛けを読み取るだけならともかく、ほとんど台詞のないローラの心情を想像しなければならない。
例えそれを乗り越えたとしても見えないエネミーに襲われればゲームオーバーになる。
リトライすればバッテリーが減る。


時間制限とごく一部のシーン以外にゲームオーバーのない『Dの食卓』は主体となる映像にいくつかの謎解きを組み合わせた、映画のようなゲームと言えた。クリアまでひとつなぎの体験をさせる作りになっている。

一方『エネミー・ゼロ』はよりゲームの面に比重を置く、映画の皮を被ったゲームだったと思う。
ゲームオーバーや、中断することすらゲームの一部の体験になっており、それによって物語を語らせている。ゲーム進行状況にあわせてボイスレコーダーの台詞が変化するのは、あらすじを語らせてプレイヤーに目的を思い出させることに加え、物語上の効果を生むために設けられている。

『エネミー・ゼロ』の取っつきにくさは、それがなければ生まれない面白さという厄介なものなのだ。

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