フールズメイト2(過去作)

 3

 「君は、まるで知らぬ素振りを決め込むが──」

 と、隣から聞こえる声を、板垣に身を寄せる忍はあえて無視した。

 しかし、それでもその声は愉しげな調子で続ける。

 「僕の周りには、数々の陰謀が蠢めいている──暗殺組織──秘密結社──そいつらから身を守る為に、僕は知識を備えた──おかげで、今このような真似が出来るのもその知識のたまものというわけだから──有り難く──うやうやしく──まぁ、心の底から感謝してくれ」

 ──ああ、感謝してるとも。心から、本当に。

 隣に座る稀代の妄想狂を睨みつけた後、忍は生垣の隙間から道を覗いた。

 時刻はすでに深夜の十二時を廻っていた。

 生垣の隙間から覗きこむと、街灯の明かりの向こうに、色濃い闇が広がっている。

 その闇の中に、薄らと穴が見えた。

 ガード下。

 忍が、あのキリトリ魔と出くわした魔窟の入り口である。

 その穴にの中に垂れこめる暗闇に、まだ、あの鮮烈な赤は無い。

 ───こんな真似をして、本当に良いものか。

 忍は、隙間から目を離した。

 隣には、嗤う奇人。

 やはり、自分は大きな間違いをしているのだろう──と、忍は腹の内で悔やんだ。

    

 昨夜、喫茶フールズ・メイトの中で、洋二は信じられぬ提案をした。

 ───あの女に、会いに行こう。

 つまり、キリトリ魔を直に見たい───と、洋二は云ったのである。

 無論、忍はその提案に反対した。

 当然である。誰が好き好んで、自分を襲った狂人の元へと足を運ばねばならぬのか。

 しかし、狂人はまるで悪魔の如く囁く。

 ───綺麗な、女なんだろう?

 忍は何も答えられなかった。

 確かに、あの女は美しい──しかし、その美しさが果たして尋常なものであるか、忍には解らない。

 ───一度、僕も見てみたいんだよ

 どうかしている──と、忍は呻いた。

 しかしその時、忍もまた、どうかしていたのである。

 危険な事はわかっていた。

 行きたく無い、とも思った。

 しかし、脳裏浮から離れないあの姿が、自身の背筋をぞくりと震わせるのである。

 股間にふれた女の柔肌──ナイフを翳し、迫る女の幻影───その妖しさ──美しさ───耳に触れた唇は、まるで人では無い、何か、別の様なものの気がして───

 気がつけば、忍は黙って頷いていた。

 

 「しかしながら……」

 忍は腕時計の液晶画面を見る。

 深夜十二時──あの赤いドレスの女を見た時刻は、すでに三十分は過ぎている。

 「……なんで、君まで来たんだい?」

 と、忍は不服気に腕時計から視線を逸らした。その先には、闇夜に浮かぶ白いワンピースが揺れている。

 「……いえ……少し、興味があったものですから……」

 隣には、引き籠りの少女が居た。

 そう、引き籠りなのにも関わらず──である。

 「いやね、雪絵ちゃん、君は本当に───」

 「……夜は、誰にも会わないから…」

 伏せ目がちな少女の唇が、何時もより濡れ見えた。

 「……私が此処に居る事を、誰も知らなければそれで良いの……」

 草むらの中で膝を抱える雪江の横顔は、闇夜の中でもはっきりと解る程白い。

 しかし、何かが何時もと違う。

そう思い、忍は眼を凝らし、少女の顔を覗きこみ──思わず、息を飲んだ。

 微笑んでいた。

 濃厚な夜の闇の中、身を埋める少女の横顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。

 ──やはり、この子もか。

 忍は息を吐き、板垣の節穴に眼をあてた。

 偉大なる妄想狂。

 引き籠りの少女。

 彼らは確かに世の中からはみ出した──所謂、奇人である。 

 しかし、奇人にも『常識』というものが存在するのだと、忍はあの店で学んだ。

彼らには彼らのルールがある。収集狂なら収集狂の、女装狂なら女装狂のルール。それがあって、初めてかれらは動く。ただ、それが少数派であるがゆえに奇人と呼ばれるだけなのである。

 しかし、この二人は違う──と、忍は思う。

 はたから見れば完全な奇人──しかし、その行動は奇人のそれよりも理解しがたく──酷く、矛盾している。

忍は眼を細め、穴の中の暗がりを睨んだ。

それは、奇人の様であって、まるで、奇人では無いような──

「──忍君」

 隣から声がした。

 しかし、忍は板垣から顔を離さない。

 どうせまた、洋二の戯言である。

 「しかしなんだ、君はそのキリトリ魔を、本当に知らないのかい?」

 「……知らねぇよ。第一、知ってたらこんな真似する事ないだろ」

 まぁ、確かにそうなんだが───と、洋二は呻く。

 この男にしては、珍しく歯切れが悪かった。普段ならアレやコレやと、自身の妄想を押しつける変人が、今日はやけに大人しい。

 ──何かあるな。

 しかし、それが何なのか問いただす気は、今の忍には無い。

 「……で、あの女が現れたら、どうする気なんだ?」

 まぁ、僕の命を狙う相手なら、それなりの対処をするさ──と、洋二は節穴を覗きながら悦に嗤う。

 「ところで、君はどう思う?」

 「どう思うって…何が」

 「男根を切り取る女……彼女は、何を思っているのかと思ってね」

 キリトリ魔が何を思うか───忍には、とても想像し難かった。

 まず、忍は男である。

 それが自身の、あるいは他人の男根を切り取るなど──正直、考えただけで、痛い。

 「……そんな事、別に考えたくないな」

 「なるほど、そりゃそうだ……それじゃぁ、雪絵ちゃんは?」

 問われた少女は暫く無言だった。

 何かを考えているらしい。くぐもった唸りの後、その──と、細い声で雪江は云った。

 「……安部定………」

 「ははぁ……なるほど、安部定ね」

 洋二はその答えに満足した様子だった。

 「さすがに、女性の意見は男性とは違うな。良い、実に良い発想だ」

 何が良い発想だろうか。

 安部定など、こんな少女の口から出る時点普通では無い──そう反論しようとしたが、忍は止めた。

 何せ、雪絵も、この男も──普通などという言葉からは程遠、異端の人なのである。

 「忍君は、安部定事件を知ってるかい?」 

 その声に、歌う様な調子が混じっているのに気付き、忍は眉を潜めた。

 ──安部定事件。

 映画好きの忍にとって、その事件はスクリーンの中の出来事でしか知らな。しかし、確かにこの妄想狂が好きそうな話題ではある。

 「昭和に起きた事件だろ?確か、定って女が、駆け落ちどうぜんで逃げた男を殺して、その股間を切り取るっていう──」 

 「そう、まさに歴史に残る大猟奇事件だ。陰惨淫靡の極み──筆舌に尽くし難いこの事件だが……男性器を切り取るという点においては、今回のキリトリ魔と同じだ」

  しかし───と、洋二は呻く。 

 「違うのは、やはりそれが痴情の縺れであるという事……定が殺す前に、男は自分の首を締めさせたというし、切り取った男根を定は大事に持ち歩いていた。前にも話たが、今回君と彼女の間に接点は無い、だからやはり、安部定とはまったく違ったケースなのだろう」

 ならば、なぜそんな話を聞かせるのか──

 そう言いかけた時、歌う様な洋二の声が耳に届いた。 

 「しかしながら、僕がこの安部定事件でもっとも興味をひいたのは、この事件の後、彼女を信仰するもの達が現れた点さ」

 「──信仰?」

 「ああ──この事件は、まさに純愛の末の犯行だ。愛深きゆえ、その男を自分のものにしようと試みた女神──実際に、服役中の定には大量のファンレターが届いたし、マスコミはこぞって彼女を女神扱いした」

「女神?男のあそこを切り取って?」

 ああ、そうだよ──と、洋二は愉しげに歌った。

 「この事件は、僕から云わせればまるで神話さ──愛の為に人を殺し、自らも破滅の道を選ぶ女──そういった、非人間的な行為こそが、人を犯罪者たらしめ、また神にも至らしめる───」

 ────だから、狂人なんかが生まれるのだと、洋二は云った。

 忍は黙っていた。

 洋二が、何を云おうとしているのかは解らない。 

 だが、それがどんなものであれ、この誇大妄想狂が今口にしているのが、決して、ただの妄想なのでは無いと思ったのである。

 

 その時、ふいに洋二は口を噤んだ。

 忍は、確かに洋二の話は理解できなかった。しかし、その口が閉じられた理由だけは、はっきりと解った。 

 

 ──節穴の闇の中で、赤い色が揺れていた。

 

 ドレス──それも、闇の中ですらはっきりと見える程、そのドレスは赤かった。

 その裾から、女の白いふとももが覗いた。

 見れば、女は素足である。

 ひたひたと、夜道を歩く女の足はまるで異形。

女が街灯の輪に浮かんだ時、その手に握られたナイフが、以前見たものと同じ事に忍は気がついた。

 「あれに…間違い無いか?」

 隣から声が聞こえた。

 しかし、忍は答えられない。

 街灯の輪の中で、女は足を止めている。

 ──嗚呼、あの女だ──。

 あの時──首に絡んだ長い髪。

 己の瞳を覗いた、硝子玉の眼。

 耳に触れた、あの、腫れぼったい唇───その感触を思い出し、忍は息を飲んだ。

 辺りを見回し、女は再び歩き出していた。

 闇の中で、白い足がうねっている。

 ──やがて、ガード下の闇に溶ける様に、女は消えた。

 忍は暗闇を見つめていた。

 すでに、女は見えない。

 しかしそれでも──眼が、離せないのである。

 「なるほどねぇ──」

 不意に、忍の気を解く様に、洋二の呑気な声が響いた。

 「いや、確かに思った通りの、綺麗な女だ」

 ───しかし、女としてでは無くね、と洋二は付け加える。

 「女として…じゃなく?」

 放心して上げた顔の先に、加えられた煙草があった。

 「ああ、その通り」

 ライターを擦る音がした。

 闇の中に洋二の顔が浮んだ。

 茜色の、悲しげに伏せられた瞳───

 ───何を、知っている? 

 闇の中に沈んだその顔を、洋二は睨んだ。

 この男は、間違い無く何かを知っている。それも、確信めいた何かを。

 しかし、忍の視線を余所に、洋二は再び節穴に眼を向けた。

 「さて、彼女はこれからどうする気かな……ねぇ、雪絵君」

 忍が振り返ると、呼ばれた少女もまた、板垣に顔を押し当てている。

 「……やっぱり、切り取るのかしら……」

 ───切り取る? 

 はっとして、忍は再び節穴に喰らい付いた。

 ガード下のトンネルの闇に消えた女の姿は、まだ見えない。

 しかし、必ず出てくる筈である。昨晩、自分を襲った時の様に、あの赤いドレスの手にはナイフが握られていたのを思い出し、唇を噛む。

 ならば、かならずあいつは男を襲う───

 ──暗がりに、人影が動いた。

 「あっ」と、隣で声を上げかけた雪江の口を、洋二が抑える。

 「……さて、おいでなすった」

 忍の耳元にで、愉悦にまみれた声が囁く。

 男だ。

 しかも、一人。

 酔っているのか、おぼつかぬ足取りで、ふらり、ふらりと道を歩いている。

 ──来たか。

 忍は思わず拳を握った。

 この道は一本道……つまり、行く先はあのガード下以外無い。

 男の足が、街灯の下を抜けた。

 ガード下まで、後数歩。

 そこで、闇の中に赤が揺らいだ。

 ───現れた。

 女である。

 赤いドレスを翻し、酔った男の前へと、音もなく歩み寄る素足の淫婦──

 「誰だ…あんた」

 男の声がした。やはり、酒を飲んでいるのか、幾分声が虚ろである。

 しかし、女は答え無い。

 ただ、するりと男の前に立つと、あの時と同じように、男の耳元に口を寄せた。

 ───くださいな。

 男の首に、白い腕が絡みついた。

 その先で、うねる刃先が鈍く光かった。

 まずい──

 節穴から眼を離し、忍が板垣から身を乗り出そうと顔を上げた。

その瞬間、隣いにいた筈の男の姿が消えているのを忍は認めた。

 「───さぁて」

 洋二の声がした。

 ──どこから?

板垣から顔を上げると、街灯の下に、黒いスーツが立っているのが見えた。

 女の眼が、大きく見開かれる。

 「──君は、僕を殺したいのだろう?」

 「……はっ?」

 思わず声を上げたのは、忍である。

 お前、何を云って───

 と、言いかけた矢先、高らかと響いた声が闇を裂いた。

 「まったく手の込んだ真似をしたものだ!僕をおびき出す為に、その男や、あまつさえ忍君まで襲うなんて──本当に、君の組織がやる事は何時も卑劣で、汚い」

 そう云って、誇大妄想狂の黒い背が、絡み合う男女に歩み寄るのが見えた。

 女は、呆然と立ち尽くしている。

 当然だ──と、忍は唇を噛んだ。

 なにせ、体の良い獲物を襲おうとした矢先、いきなり現れた男が、いきなり自分を暗殺者だと唱えたのである。いくらキリトリ魔であろうと。驚くのも無理は無かった。

 女は、大きく見開いた眼差いていた。

 そこに、洋二が近づく。

 ──しかし、女は動かない。

 近寄る男に襲いかかる訳でも、腕の中の男盾にするともせず、ただ、唖然と洋二の顔を見つめている風だった。

「な、なんなんだ!お前ら!」

 叫びながら、男は女を突き飛ばす様にして離れる。その時、ようやく気がついたのだろう。だらりと垂れ下がった女の手に光る物を見て、ひぃっと、短く呻いた。

 「た、たたた、助けてくれ!」

 叫んだ刹那、男はその場から走り去り、ガード下の闇へと消えた。

 「──さて」

 と、走り去った男が消えるのを見届けると、洋二は女に視線を移した。

 「君も逃げないとまずいだろうね……だが、その前に聞きたい─────君は、何処の組織の人間だい?」 

 その瞬間、女の顔が歪んだ。

 次の一瞬。変わり果てた女の顔を見て、忍は呼吸を忘れた。

 ──泣いている。 

 闇の中で、女の眼から流れた涙が、街灯の明かりを撥ねた。 

 それを隠す様に、女は慌てて顔を覆う。

 覆った拍子に、その手から滑り落ちたナイフが、からりと、地面に転がった。

 洋二は、その様子を黙ってみていた。

 その背に、ゆっくりと雪江が近づくのが見えた。

 女は顔を上げた。

 雪江は足を止め、洋二の背に隠れた。

 刹那──闇の中で、浮立つ様な黒髪が揺れた。

 ナイフを拾い上げた赤いドレスが、闇にはためいた。

 地面を蹴る、白い裸足がうねった。

そして───まるでそれが夢であったかの様に、女は音も無く、ガード下の闇へと消えたのである。

   4

 三日後。

 夕日の差し込む扉を背に、忍はフールズ・メイトの椅子に座っていた。

 席を囲むは何時もの面子。誇大妄想狂と、引き籠りの少女である。

 「──ほい、どうぞ」

 珈琲を三つ机に置き、立ち去る店主の足音が、レコードに交じって聞こえた。

 しかし、そのカップに手を付ける者は誰もいない。

 洋二は煙草を燻らし、そしらぬ顔で新聞を眺めている。

 雪江はというと、どうやら気分が優れぬ様である。椅子には座っているものの、机に本を置いたまま、折った膝の間にすっぽりと顔を埋めている。

 

 ───まったく、辛気臭い面だ。

 胸の内で悪態を付いてみるものの、やはり忍もまた、目の前の珈琲に手を付け様とは思わなかった。

 「なぁ……」

 新聞の向こう側から、唐突に声が響いた。

 「この曲、なんて名前だかな?」 

 と、新聞紙の上に現れた人差し指が天井を指し示す。

 「……心の旅だろ、チューリップの」

 と、忍は不機嫌さを隠す事無く云った。

 何せ、この曲は週に二度は掛る店主のお気に入りである。その曲の名を、この男が知らぬ訳が無かった。

 しかし、洋二は悪魔で素知らぬふりを通し

 「ああ、そうだったな──」

 と、珈琲を手にとる。

 新聞紙の内側に、吸いこまれる様にカップが隠れた。

 それを見ていたのか、隣から伸びた生白い手がカップを掴み、雪絵の膝の間へと引きずり込まれる。仕方なく、忍もまたカップを手にした。

 店の中には、煙の如き薄い橙色の空気が流れていた。

 薄らと流れている、むずがゆい程優しい曲──それに反目する様に、三人は黙ったまま珈琲を飲んだ。

 「───忍君」

 陶器を置く澄んだ音色が響いた。

 顔を上げる。

新聞紙の向こうから乾いた金属音が聞こえた。

 「君は、気になっているのだろう?」

 新聞がめくれる音が聞こえ、その上に紫煙が立ち上る。

 「この間の女が、本当は何者か……どうして、彼女が涙したの───そして、君は、彼女と僕が知り合いだと思っている」

 違うかね?──と、洋二は再び新聞のページを捲った。

 ───その通りだよ、妄想狂。

 忍は洋二を睨んだ。しかし、その視線は新聞紙に遮られ、梳かされた。

 ──あの夜以来、忍はずっと考え続けてきた。

 何故あの時、洋二はあの様な事を云ったのか──そうして、なぜあの女は泣いたのか。

 確かに、洋二は稀代の誇大妄想狂である。事が起これば陰謀だと嘯き、誰かが転べば暗殺だと喚く変人──

 ───しかし、忍は思う。

 あの夜、キリトリ魔の前に立ちはだかった時の洋二は明らかに不自然だった。

 結果的に男を救ったといえ、あの赤いドレスの女を、洋二は始めから『キリトリ魔』であると知っていたはずである。それにも関わらず、洋二は彼女を暗殺者だと喚いた。

 では、本当に彼女は暗殺者であるのだろうか?──とも、忍は思った。しかし、それこそこの妄想狂にパラノイアに感染させられた証だろうと、忍は首を振った。、

 つまり、忍には何も解らなかった。どんなに考え様とも、ただ、得体の知れぬ疑惑だけが残った──

 故に今、忍は苛立っている。

 ──こいつは、何処まで弄ぶつもりだ。

 新聞の向こうで、恐らく悠然と煙草を咥えているだろう二ヤケ面を想像し、あの夜、能裏に浮かんだ言葉を思い出す。

───奇人の様であって、まるで、奇人では無い様な───

……つまり、この男はただ偏屈なだけの奇人なのである。

「──で、それを教える気はあるのかよ」

 忍は云った。

声に、多少怒気を込めたつもりである。

「ああ、教えるとも。だが、その前に──」

 新聞紙がひらりと舞った。

 髪を撫でつけた浅黒い男の顔が見えた。

 しかし、嗤ってなどいない。

 色を失いかけた瞳が、射る様に此方を見ていた。

「──君に、伝えないといけない事がある」

「……伝えたい事?」

 嗚呼、と短く答え、洋二は煙草を灰皿に置いた。

 「それには、一応雪江君の了解も要るのだが……」

 ───雪江?

 隣を見ると、こうなる事を見据えていたのか──少女はすでに、膝の間に顔を埋めては居なかった。

 「……そのほうが、良いとおもう……」

 雪江の瞳もまた真剣である。

 洋二は頷いた。

 どうやら、腹を据えたらしい。

 苦々しい面持ちの中で、泳がぬ瞳だけが、忍を見据えている。

 「彼女はね──」

 ────この店の、客なんだよと、洋二は云った。

 「───客?」

 忍は思わず呻いた。

 洋二を目を見る。

 ───嘘では無い。

 眼前の双眸が、そう云っている。

 「……毎週水曜、七時にこの店に来る」

 忍は慌てて店の奥を見た。

 そこにある日捲りカレンダーの曜日は、見事に水曜を指している。 

 「ちょ、ちょっと待ってくれ──」

 思考が追いつかない。

 もつれた舌先を、朗々と響いた声が遮ぎった。

 「ちなみに、今は六時半。つまり後三十分で、彼女はこの店にやって来る」

 やってくる──

 ──あの、キリトリ魔が?

 混乱する思考の渦を、忍は必死にかきわけた。

「ま、待ってくれ───それじゃぁ、あのキリトリ魔は、この店の常連だって言うのか?」

 洋二は、黙って頷いた。

 雪江もまた、こくりと、うなだれた頭を動かして見せた。

 ──信じられ無い話である。

 言葉を発し様とした口もつれ、呻き声が漏れた。

 いくらこの店が変人達の社交場だといえ、そんな犯罪者までが居るなど、一体誰が想像しえよう──

 「──じゃ、じゃぁお前らはやっぱり、あの女と……」

 「ああ、知り合いだ。もっとも、雪絵ちゃんの方は、さほど交流がある訳じゃないがね」

 洋二は眉を顰め、雪江を見る。

 視線が合うと、雪江はその顔を一層青褪めさせ、再び膝の間に頭を埋めた。

 しかし──それなら、忍は彼女の事を知っている筈であった。

 その事を問うと、洋二はさも不服気に「それは、君が彼女を意識していなかっただけさ」と、まるで自分のせいだと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 「彼女は確かにこの店に居た。しかし、君との接点は殆ど無い──ただ、いつも店の奥に座り、黙って珈琲を飲んでいるだけ。慎ましくも、実に淑やかな人間だよ」

 云い終えると、洋二気は空になった珈琲を掲げ、ブレンドを───と、カウンターに声を投げる。

 「でだ───はじめに気がついたのは、君がナイフの話をした時だよ」

 ───やはりそこか。

 洋二はカップを置き、憂鬱そうに瞳を伏せる。  

 「彼女が普段持ち歩いているものでね、一度見せてもらった事があるが、ほぼ間違い無く、君が見た物と一緒だろうね」

 と、まるで当たり前の事だと言わんばかりに、悠然と言葉を紡ぐ。

 しかし忍には、それがとてもまともな女だと思えなかった。

 普段からナイフを持ち歩く──それだけで、立派な変質者か、犯罪者ではないか。

 しかし、洋二はさして興味が無い様子だった。うろたえる忍を他所に、淡々と言葉を紡ぐ。

 「しかし、もしかしたら偶然という事もある。例えば、偶然同じ形をしたナイフを手にした何者かが、君を襲ったという事も考えられる───が、実はもう一つ、彼女とキリトリ魔には共通点があった」

 ───共通点?

 これ以上、まだ何かあるというのか──と、忍は呻いた。

 もう、茶番はうんざりだった。

 この男は、初めから知っていたのである。

 あのキリトリ魔が、この店にやって来ている事も。その女の正体も。なぜ、男性器を切り取ろうとしているか──何もかも知っていたのだ。 

 「お前は──全部知っていたのか」

 「いいや?全ては知らなかったよ、ただ、漠然とは思い描いていた」

 だから、君の云うそのキリトリ魔を、直にこの眼で見たかった──と、洋二は云う。

「それで、結局、お前の想像通りだった訳か?」

 すると、洋二は嗤った。

 何時もの、人を小馬鹿にしたような笑みでは無い。

 まるで、自身の過ちを思い出し、つい、嗤ってしまった時の様な──  

 「君は────秘密結社というものを知っているか?」

 ───何を、云っている?

 「い、いや・・・知らないが。それとキリトリ魔が何の関係があるんだ?」

 辛うじて受け答えたものの、忍の声は擦れていた。

 「関係?もちろんあるさ」

 洋二はゆらりと虚空見上げ、さも愉しげに微笑んだ。

 「秘密結社──嗚呼、なんと陰惨で、猟奇的な響きだろうか。人目を憚り、世から身を隠し、それでも多数の会員をもってして、偉大なる野望の為に心血を注ぐ集団───しかし、それは決して物語の中だけの存在では無いのだよ」

 洋二の瞳は狂気に悶えていた。

 「実際に、秘密結社は世の中に存在し、中にはそれを公に晒すものも居る──まぁ、その時点で秘密結社の定義に外れていると思うのだが、それでも『秘密主義者の集団』であるならば、その組織は保たれる」

 それがどうしたのだと、忍は恐る恐る忍は尋ねた。

 洋二は顔をふせ、呟く様に云った。

 「まぁ、話はこれからなんだが・・・・・・・その秘密結社と言われる組織の中に、一つ変わったものがある」

  ───変わったもの?

 忍が眉を顰めた時、いきなり、洋二の頭が持ち上がった。 

 「───キュベレーと言う、女神がいる」

 その声は、酷く真剣で──狂おしい。

 「神話の中に登場する女神だ───ある日、大神ゼウスが熟睡の間に精を垂らし、それが大地に落ち、そこから、一人の赤ん坊が生まれた。しかし、その神は生まれながらにして男であり、女であった──男女の性を味わい尽くすその者を神々は妬み、その性器の一方───つまり、男性の方を切り落とした──そうして生まれたのが女神がキュベレーと云う訳だ。しかし、切り落とされた男根からもまた、少年が生まれた──彼の名はアッテス。類まれなる美少年だった彼を見つけたキュベレーはやがて彼を愛する様になる。アッティスもまた女神の求愛に答えたが、しかし、彼はまだ若かった───彼はある日、とあるニンフと通じた。激怒したキュベレーは彼を狂気に落しいれ、アッティスは狂乱の中、自身の男根を切り落として死んだという──」

 そこで洋二は言葉を止めた。

 視線が揺らぎ───ふと、口の端を釣る。

恐ろしい話だった。

 しかし恐ろしさとは、すなわち信仰なのだ──と、洋二は嘯く。

 「かつて、このキュベレーを崇拝する結社が存在した。彼等は『ガロス』と呼ばれ、ローマ人からは奇異の眼差しを向けられていた訳だが──その理由は、彼等の体にあった」

  ───体?

 「そう、彼等の体には、男性器が無かったのだよ。あのアッティスを真似、己の男性器を切り落としていたのだ」

 いつの間にか、忍は震えていた。

 確かにこの男は、普段からこの手の話を好む。しかし、何時もの洋二は、何処かおどけた調子でこの手の奇談を話すのに対し、今の洋二の目に、あの悪戯な色は無い。

 ───何かが、違う。

 そう思った刹那、脳裏の闇に赤いドレスが揺れた。

 「──かれらキュベレー崇拝者の密儀は、まず信者達の行進から始まる。森の中で松の樹を伐採し、それを神殿に運ぶ───この樹は、アッティスの象徴さ。 そうして、その樹をアッティスの屍に見立てて、埋葬を済ませると、ようやく、彼等の儀式は始まる────まず、信者達は自分の血を捧げる。打ち鳴らされる太鼓の音──鳴り響く鐘──その、野蛮な音楽に身を任せ、頭を振り、髪を振り乱し、彼等は踊り狂う。吼える縦笛──絶叫──嬌声──荒々しい狂乱の後、気が触れた彼等は痛みすら感じなくなり、やがて、自身の性器を手にして、そこにナイフを────」

 「───もう、やめてくれ。」

 忍は嘆いた。

 気が、狂いそうだったのである。

とても、まともな話では無かった。

頭蓋の中では、眼前の妄想狂の持つ歪んだ思想が─概念が──次第に、まるで嘲笑うかの様にうねり、溢れはじめていた。

それが、この妄想狂の力。

偉大なる精神病の魔力。

頭を抱え、忍は呻いた。

そんな話をして一体何になるのというのか──

 ──しかし、それでも関係あるのだと、洋二は言葉を続ける。

「このキュベレー崇拝は、所謂秘密結社の性格を持ち合わせていた。まあ、こんな淫靡な儀式を行っている訳だしね。当時の法王庁で認可はされていたけれども、秘密主義だったし、入社式も存在した……ちなみに、男性器を切り取るからといって、婦人が参加できない訳じゃない。なにせ元は両性具有の神だからね、その辺りは自由だったのさ」

 そこで、洋二はようやく口を噤んだ。

 横から現れた手が、テーブルに珈琲を置いている。

 「さて、そこであの女の話に戻るが──」

 と、テーブルを去るマスターの背に片手を挙げ、湯気の立つカップを手に取る。

 ───彼女は、そのキュベレーを崇拝している。

 「まさか」

 「いいや、本当さ───さっきも云ったろう?このキュベレー崇拝に、男女の区別は無いとね」

 飲み終えたカップを置き、洋二は不機嫌そうに云う。

 「そう、この秘密結社の根底に流れるものは性からの離脱さ──ガロス達がそうしたように──狂気に溺れたアッティスがそうした様に───キュベレーが、神々に切り落とされた様に」

 洋二の瞳が、まっすぐ忍を捉えていた。 

しかし、忍には、洋二が何を言おうとしているのか解らない。

 なぜこんな話をするのか。

 どうして、キュベレー崇拝が、あのキリトリ魔と繋がるのか。 

しかし、一つだけ、思い出せた事がある。

 あの時──板垣を覗きながら、洋二が持ち出した阿部定の話をしていた時のあの言葉。

 

───この事件は、まるで神話さ───

 眼の前の洋二に、赤い色が浮いた。

 そう、この男が云いたかったのは、安部定事件何でもなかったのである。

この男は始めから知っていた。

この妄想狂は──この狂人は───……  

 ……──歪み始めた景色の外から、洋二の声が響いた。

 「彼女はね、女神に憧れてこの店に来たのさ───悲しそうに、眼を伏せながら───」

 懐かし気に細められた眼差し───それに応えるが如く、雪はコクリと小さく頷くのを見て、ふと、忍は眩暈を覚えた。

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