もこ4

───他人の──記憶を?

 困惑する私を前に、猫は再び視線を窓に戻し、言葉を続けた。

 「この列車は、旅人の記憶を食い、完全なる旅人にすると言ったが、それにも盲点はある。列車に乗っている最中、その人間にもし他人の記憶が植え付けられてしまったら・・・・・・君はどうなると思う?」

 「列車に、それも食われてしまう?」

 「いいや、食われない。なぜなら、それは本人の記憶じゃないからだ。この列車が食えるのは、本人の記憶だけ、それ以外の記憶は食えない」

 「・・・・・・それが、どう関係しているんだ?」

 「わからないか?記憶を食った筈の人間が列車を降りたとき、その脳にはもう一つ別の記憶が残っている・・・その矛盾を生める為に、この列車は何をするか…」

 その時、まるで列車が猫を制する様に、高らかと汽笛が響いた

 私は、何も答えられなかった。ただ恐ろしくて、その汽笛が通り過ぎるのを待った。

 やがて、薄っすらと蜜の様な余韻を残し、汽笛は止んだ。窓の外を睨みながら、猫は丸い手を上げ、そっと硝子に爪を立てる。

 「記憶を、もう一度そいつに戻すのさ・・・・・・そうして、他人から与えられたその記憶を合致させ、もう一度列車に乗せる。そしてこんどは完全に、記憶を消し去ろうとする」

 猫は振り返り、私を見た。

 「その時、君はただ車掌にこう言えば良い『ここが目的地だ。だから、列車にはもう乗らない』とね」

 「・・・・それで、私は助かるのか?」

 「ああ、大丈夫だとも。あとはもう二度と、この列車に乗らなければ良いだけさ」

 ひとしきり喋り終えると、猫は疲れたのか、腰を浮かせ、そろえた前足を突き出す様にして大きく背を伸ばした。

 しかし、今の話しを聴き終えたと同時に、私の脳裏にはある一つの疑問が浮かんでいる。

 「───それで、その記憶は誰から、どうやって貰うんだ?…この列車に乗ると、記憶が消えるんだろ?」

 すると、猫はきょとんと目を開き、まじまじと私の顔を見た。続いて、笑い声が響く。ケタケタと、可笑しくてたまらないといった具合に、猫は窓に手を付き、まるで人間の様に笑った。

 「ハハハハハ!君は本当に鈍いな。猫の僕より、よほど脳髄が小さいと見える」

 一頻り笑うと、猫は喘ぎながら顔を上げる。

 「その記憶はこの僕から、君へだ・・・・何か、不満があるかね?」

 有無を言わさぬ青い瞳が、じろりと私を見た。

 私は慌てて頷き、姿勢を正す。

 「・・・ちなみ言っておくが、この列車が食うのは「人の記憶」だけだ。当然、猫の僕にはなんの影響も無い」

 「そ、それじゃぁ一体、どうやって記憶を貰うんだい?」

 おずおずと私が尋ねると、猫は私をねめ付けたまま、器用に肩頬を釣った。

 「なぁに、心配は要らない。ただ君は黙って、僕の話しを聞くだけだ」

 「・・・・・それで本当に、私は助かるのか?」

 驚いた。本当にこの猫の話しを聞くだけで、私の記憶が戻るというのだろうか。

 「しかし、君は僕の話を聞く際に注意すべき事がある」

 「注意すべきこと?」

 唐突に言われ、安堵しかけていた私の心は再び揺らいだ。

 「ああ、簡単だ。僕の話しを聞き、その光景を想像する──それだけで良い。しかし、それもせず、ただ話しを聞き流す様では駄目だ。それでは君の頭の中に記憶として残らないし、運が悪けりゃ、この列車から降りれなくなってしまうからね」

 猫は「わかったか?」とでも言う様に、けだる気に後ろ足を伸ばし、頭を掻いた

 確かにこの猫の言うとうりならば、私は助かる。しかし、私の胸は未だに重く、暗い。

 ───この猫の記憶とは、一体なんだ?

 茶色と白の長い毛に覆われた、人間の様に喋る猫。その性格は決して良いと言えはしないが、もとは猫である、多少意地が悪くとも、そこは当然と言えなくも無い。

 それでもこの猫を信用して良いものか、私は迷った。

第一、この猫は未だに自分の正体を明かしてはいない。人間と喋れる理由もわからない。それに、この列車が人の記憶を食う列車だと知っていたのにも関わらず、どうやって乗り込んだの───もしかすれば、この猫もまた、悪魔の如き列車の手先かもしれないのだ。

 私はもう一度、こんどはじっくりと、探る様に猫の姿を見た。猫は目を瞑り、椅子の上に伏せたまま、退屈そうに欠伸をしている。

 やはり、どう見ても、普通の猫である。手足が短かく、毛が長いというのは、きっと品種であろうが、あまり見た事の無い猫だ。よく見ると、閉じた目には睫毛のようなものがあり、眠る姿は、まるで人間の様にも見えた。

 ───この猫は、どうして喋れる様になったのか。

そうして、一度湧き上がった好奇心は、とても抑えようも無かった。

 どうせ、私の記憶はこの猫の話を聞かねば戻らぬのだろうし、それ意外の方法も無い。ならば、この猫の話を聞いてみようじゃないかと、諦めにも似た、仄暗い欲望に突き動かされ、私は顔を上げた。

 「・・・・・・おや、どうやら決心が付いた様だね」と、猫は私の様子に気が付き、むくりと顎を上げる。

 私は何も言わず、静かに頷いた。それを見て満足そうに笑うと、猫は立ち上がり、ふるりと体を振るわせる。

 「それじゃぁ話をする前に、一応君の名前を聞かせてくれるかい?」

 そう言われ、私はまだ、辛うじて覚えている自分の名を脳裏から引きずり出し、猫に伝えた。

 「───なるほど、良い名前だ。ちなみに、その名前が消えた時、君が『完全なる旅人』になる時だから、用心したまえ。それから、想像だ。イマジネーション・・・・絶対に、僕の話しを聞くときはそいつ忘れるな」

 喋り終えると、猫は改まった様子で据わり直し、目を細めた。

 ───ガタン──・・・・ガタン──・・・ガタン──

 悪魔の列車は猛々しく震えていた。

その奇異な揺れに身を任せ、私は猫の言葉を待った。

 目を細め、猫は窓の外を見ていた。しかし、視線は少しも景色を追ってはいない。顎を上げ、まるで何かを思い出す様に、窓の上を見詰めている。

 「さて、何から話そうか・・・・・・」

 そう、ぽつりと呟いた後、まるで内緒話でもするかの様に、喋る猫は声を潜めた。

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