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one day photo_26:自然科学の像から曼荼羅まで、川野恭子さんの展示を見て。


デッドパン的に画面の線を整理した風景写真、対岸のラインと対岸の花木に正対し画面内のラインが水平垂直を描く場所は1点しかない。単玉で足を使えというのはこのへんのことを言っている。
大判カメラの作法的には基本的なことで、マグナムのマークパワーや、トーマス・シュトゥルートを見るとすごくきれいに正面を捉えてている。全員今回の記事に出てくるモダニズムの系譜だと僕は思っている。

■初めに、この日記を読む前に
多分この記事が表示される人って写真ジャンルの人なんじゃないかと思うんですけど、こんな小難しいタイトルクリックするあなたは写真芸術の勉強をしていたり、畠山直哉や杉本博司の著書などを読んでいるんじゃないでしょうか。
この記事は仕事の合間やマラソンしているときにたまーーーーーーに、たまーーーーにまじめに考えてる写真のことや、芸術の見方とかデザインのことで、区切りがついたときに書き残す日記です、日記なんです。
書いてる本人はフツーの美大を出て、仕事ではグラフィック周りのデザイナーをしているが学術的な権威などは全くないし勉強途中なのを覚えといてほしい(日記と不勉強は予防線)

今日は花咲くさいたま市のどてっぱらを仕事の合間に、過労気味ゆえに心身の健康維持に気を遣おうということで走ってきた。
さてそんな在宅仕事の合間の優雅なジョグの中で先日仕事さぼって見に行った川野恭子さんの展示会「何者でもない」を思い出していた。

さて、長いので結論めいたものからメモっておく。
川野さんが今回の写真の展示形式が曼荼羅のようだといわれたという話をしてくれた、これが今回の話の始まりになる。人はよくわからない感情や神性を形にしてきたがそれは美術の歴史にも繋がる。
さて写真である、光学的に人間の目を介さず現実の景色を複製できるカメラ(自然科学の像、自然の鉛筆)は人間の認識の真実(科学的に正しい現実)を暴く装置としてモダニズムの写真家たちが今でも使っている。

人が感じる「何か」を像化したいという部分で、今回の川野さんの展示やそこで出た曼荼羅ってすごくわかりやすくて好きだった。
人間の芸術活動ってこれだよなー、最初は主観的に見えたけど根本は外にあるよくわからんものを形にしようとするものだよなーっていうのを称賛したりする内容がここから先の日記の内容になる。

さて、ここまで読んで興味がない人や素人のメモだなと思って人はそっ閉じでお願いしたい、重ねて言うけど日記だもんよ(玄人なゆえに閉じるタイプの人は、できれば間違ってる部分とかおすすめの本あれば教えてほしい)
僕は何でこれを書くかっていうと、写真の勉強をし始めてこの辺の知識を付けたことによって安易に「感情を写す……(キリッ」とか「情景写真」とかいう人たちに対しての自分なりの評価や距離の置き方が定まった経験があるから。写真は知識がないと難しい、SNSやってるとよくわからんプロか何か有象無象がたくさんいる、そういったものの認識の仕方がわからないとだまされることもある。過去自分がそうだったので、一応勉強の足跡とともにこういうものを残そうと思う。(とても偏った勉強の知識だけど)

さて家を出た、あたりは梅の花が咲いていて気持ちがいい。
Onのシューズも調子がいい、今3キロ地点くらいを走ってる、さわやか。


デッドパン的に撮影した橋と隙間。画面内の真ん中に隙間の長方形の真ん中くるように、その他の線もすべて四辺に対して合わせた。写真の特性である偶然性の産物で右上に人の顔が映ったところが本で読んだやつだ!となった一枚。下記の本に似たような作例が出てくる。

■自然科学的に正しい景色を複製し固定化していたフィルム写真
写真展に行くときれいな写真たくさんありますよね、SNSの風景写真の人とか感情を揺さぶるような~とか言ってきれいな写真たくさんアップしてる。
さてそもそも写真には感情なんて写るのかい?っていうのは写真史的に重要なキーワードかつ勉強するときの基本事項なんじゃないかと思う。(感情や思いなんて写らないが下記の本のすべてのスタンスかつ、現代作家のステートメント見ても写らないは僕が見たものは多かった)

これまでの日記にも書いてきたが、学校で写真教育を受けたことがない僕にとってこの辺を紐解くきっかけとなったので代表的なのは
 ・話す写真:畠山直哉
 ・写真ノート:大辻清
 ・写真に帰れ:伊奈信男
 ・苔のむすまで:杉本博司
 ・写真制作者のための写真技術の基礎と実践:大和田良
 ・自然の鉛筆:赤々舎
この辺の本、なので僕の書く日記の内容や撮影する写真も大体上記のラインナップのジャンルである「モダニズム」に位置を置くものだと思う、写真の「枠内のイメージを語る」という範囲を理解し、あえてそこが好きというようにしてる。
で、上記で書かれてるのは元々写真はフォックスタルボットが自然の鉛筆と名付けたように化学反応で像が浮かび上がる人間の認識不在でも成立するもがスタートになっていて、写真の特性的状「人間の主観は像に写らない」というスタンスが好き、である。
で、この写真の特性は人間の主観不在の科学的に正しい世界を暴くということで真を写す、すなわち写真みたいな感じ。
光景から人間は情報を受け取り感情を発露する、その光景の真を暴こう、光学的な事実を像に落とそうっていう感じでやってた作家さんたちが私は好きなわけです。
人が何かを感じるその光景や雰囲気を構成する世界の像を写し捕えようっていうスタンスは主観的に見えそうだけど、答えは常に外にあるっていう話。
70年代がメインなんすかね……。

で、川野さんの展示を見て僕が思った第一印象はとても主観的だなというものだったが、何回も見直したり話を聞くととても構築が「何か」を像化させる試みだったのだなと解釈できた。
人間が感じる外の何かを像にしたい、何か形にしたいっていうところが好きだった、解釈が出来てしまったので「あ、好きです」ってなったのだ。


霧が出ている中で過去デッドパンの作法で撮影したと思っていたが、その後霧の中の撮影などはエステティック(美的質感)を優先したピクチャレスクに分類されると知ってうなだれた一枚。米田知子と畠山直哉はこの辺バランスよくて、構図的には客観的でありつつエステティックも重視している。ちなみにSNSの写真は大体スナップショットエステティックと呼ばれたものと同じものがほとんどだと認識している。写真史的には「それ意味ない」に分類されたものという理解が強い。

写真勉強したことない僕のような人は、話す写真から始まる畠山直哉の一連の著書は読んでおいて損はないと思う。僕のような素人がおすすめしてもあれなので、アウトドア+写真では皆さんも納得するであろう石川直樹の書評を置いておく。https://book.asahi.com/article/11646053

この時点で大体走り出してから5キロ地点くらい。自然科学に関して頭の中で本の内容を再履修。同時に頭の中に知り合いが出てくる、勉強してたと思うけどなんでこういう話を教えてくれずにゾーンシステムとかでマウントとるようなことしか言わなかったんだとこぶしに力が入る。



画面内のラインが整い本当に正面になるところってどこだよと思うが、このジャンルの撮り方はある種正解の立ち位置や撮り方が存在するから覚えるには良いと思う。あと日の丸構図の解説してる人で四角内のラインや物体の正面性に言及している人を見たことが無いが、それ教えてくれればこんなにいろんな本読まなくてよかったのにと憤ることが多い。


■像と認識の間にある情報を物質化したい人たち
上記までで、展示よかったです的な日記となるが少し思ったことを追加。
自然科学的に正しい像と見る側の関係性や、感情を発生させる情報っていうところが曼荼羅的な展示構成が気になった。
意味を持つ像を配置して曼荼羅は大きな意味を作っているようなもんだけど、情報→認識の矢印の部分を物質に変換したいなー表現したいなーっていうは現代写真にあるやつだ……と思ったわけです。
なんで思ったにとどめてるかっていうと確定的な内容が描かれてる本がない、示唆してる本はこの辺だと思うのと北桂樹さんの動画あたり……。
 ・現代写真論
 ・写真は魔術
 ・じゃない写真
東京都写真美術館の新進作家展行くともはや物体がおかれてる状況でしたが、なんでこれが写真?のところで「あー、そうか情報を写してたり、形がない所謂アフォーダンスを認識できる形にしたいよ」っていうところで表現を模索してるものがあったりして。
それはイメージの外の話だから写真の形態じゃないのか……と。
どれにせよ、外にあるものを考えるは大事というのに改めていきついたわけです「お前の気持ちや目線など知ったことか」な場所。

その昔感情や思いみたいなものを振りかざしてマウントしてきた知り合いが数人脳裏に浮かんだので、頭の中でZ5の角で殴りました、大体8キロ地点くらいを走っています。


もう書くことがなくなった。


■曼荼羅とテーマ
で、川野さんの展示で聞いた曼荼羅や、景色を像に固定化するカメラというか写真っていうところを考えて。
自分も「何か」をトリガーに写真を撮ってるし、「何か」を形にしたい。
けどその何かを形にするためには、写真を勉強するんじゃなくてほかのことに興味を持って熱中しないとなぁと再確認、またここに行きついた……。

写真は像を固定するための手段だったり、外の世界を改めて認識するための装置だとかここまで上げた本でよく書かれていて、手段でしかない。
テーマがわからないよっていうのは、手段(写真やカメラ自体)に興味の目が向いていたり、勉強の矛先が向いているからと改めて思ったわけでした。
というわけでいつものテーマを探そうでお家へゴール、10キロ走り切りました。汗まみれな顔で子供たちに挨拶してシャワーを浴びて、仕事の合間にこの記事を書きました(所要時間40分)



■私見とおすすめの本

日記ということですが、今回上げさせていただいた本は写真を勉強したことがない私にとって知識の地図を作るうえでとても参考になったと思っています。SNSでいろいろ写真見てるけど見方がわからなかったり、すごそうに見える人の作品や発言を見聞きして迷うことがありましたが、自分なりに判断を下すときの材料になりました。
特におすすめの本

【話す写真:畠山直哉】
モダニズムの根底には宗教から科学への転換、科学的観測による世界の認識という世界観が横たわっている。撮影者の主体ではなく、カメラの持つ機械性を認識し対象の持っている本来の姿、客体側を観察するということの重要性を話す。現代写真や現代美術を楽しもうとしたときにこの辺は前提知識として要求されるようだ、現に僕はされたがこの辺の前提がわかると読みやすくなった。

【出来事と写真:畠山直哉】
写真におけるモダニズムと近代芸術における非人間性の話が書かれる。「科学史観的な世界観をもつ自然の鉛筆たる写真を操る人間」(モダニズムの立場で制作をしてきた写真家の畠山直哉)が出来事に巻き込まれることにより、その写真行為がどう変わっていくのか、傍観者から当事者への移り変わりにより生まれた問が対談で描かれる。
「良い写真」ってなに?などの章は 常に読み返したい内容になっている。

【写真ノート:大辻清】
写真に写るのは影像「光が写るのであって人の思いなどは写らない」という前提から景色を見る主観、客観的観測装置である写真、写真が見せる 完璧な世界の見せる驚き、それを再び主観へと内包する。
といった、写真撮り始めた最初の「主観を撮りがち」を越えるためのあれこれが書いてある本。

【写真をつなぐキーワード123:大和田良】
知っておいた方がいい知識が一通り網羅されている良書、ここから気になるキーワードを掘るのがよさそう。僕はデッドパンが気になったけど 現代写真やコンポラ写真が実はとても興味あるジャンルだったんだなと再確認。

この4冊はおすすめです。
あとこの記事は「イメージの中」の話が主であるモダニズムの系譜が好きなRedsugarが書いているので枠外の話などは出てきませんが、枠外のところも楽しめる40代になりたいなと思いました。
以下日々のスナップ。

登山ブログを書いたり、山で写真を撮っています、登山写真で気が付いた技術をひたすらつぶやきます。