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one day photo_29:山中他界と主客未分な写真を撮りたくて

テーマの方向性が見えてきたら言葉を知らないと制作が出来ないということが分かったので最近は写真史や写真集を見ながら仏教や修験道の勉強を始めました、Redsugarです。

3月くらいからとても忙しくて登山も行けなくてげっそりやつれまして、体力も落ちてしまったなぁという日々。(68キロから60キロくらいまで一気に落ちた)
ゲーム制作って場所にもよるけど一桁億円くらいは何とか楽しく作れてたんですけど、2ケタ台になってくると……色々大変だよねっていう。さらに時代はグローバルということで、エンタメ市場も日本は1割そろそろ切りそうなので主戦場は欧米、となると欧米の感覚や歴史的知識がとても必要になってくる。まさに美術を見るために必要な知識と同じものが仕事でも求められ始めて、しかもその速度感がすっごいので倒れそうな日々でした。国内向けのアニメ系のものを作っていた時は知識があるから、相対的には楽だったな……。というわけで36協定ぎりぎりで生きてます。

そんな日々の中で、登山しながら写真撮ってブログ書いて。制作もしたいなと思って写真勉強してたんですけど、テーマが見つからなくて数年困ってたんですけど、方向性は見えてきたんですね。
今日はそんな話をまとめておこうという日記です。

山を歩いていると視線を感じることがある、それは人じゃなくて岩、木、空のようなモノに。急にスピったことを言い始めたが、本当にそういう瞬間があって、去年位からそれを意識して撮影し始めたんですね。
で、それって何だろうなって言葉にしたい、言葉にできないとこれは先に進めないと思った中で、古来日本は仏教神道と共に修験道がより身近にあったということを知って、じゃあそれを調べようかという感じになりました。

修験道を調べていくと、古来の自然崇拝と、伝来した仏教が組み合わさる物語の中に様々な言葉が生まれてくるのですが。超常的なものを感得する瞬間にやはり人は言葉をつけたり人格を与えるらしく、それを拝める対象として具体に落とし込んだものが僕らが山を歩くときに見る祠や、特定の岩場なのだということを知りました。
山中他界観という言葉の中でも、森林限界から上は仏の世界で浄土を歩いているのだとか、場所にも色々話があったりするのよね。
僕が歩いて歩いて歩いて……ふと目線を感じたり、「あ、目が合った」と思う瞬間っていうのは、たぶんその超常的なものの感得に近い体験なんだなと。でも具体として落とし込まれたモノや場所以外のところに「いる」と感じるそれを捉える、暴くことがしたいんだろうなぁと。

そうなってくると次はどの手法で?っていう所になるけど。手法には二つのことがあると思っていて、最終出力の形につながる構図の持ち方。そして、撮るまでの過程の二つ。
構図の持たせ方に関しては僕は複雑な表現や構図がどうしてもできない、絵画的な複雑な構成は自分にはできないのだと理解した。デザインの勉強や絵をかいていた時も背景がどうしても描けなかった、対象を中心にしか置けない。それにピクトリアリスム的なものは引用の理由がいる、主観主義的なやつはやっぱり表面的な見えが鑑賞者として僕は「わからない」が先に来るものが多い。
じゃあ中心にものを置く平面的な作画ラインの作家を見ようということで探すと、今のところやっぱり海外作家がベースになるなと。キリスト教圏ベースのシンメトリー構図(カンディダヘーファー等)ってショアやミズラックのベースでもあるけど、そっちのほうが理解が出来た。
あと、前述の「暴く」っていうのは奈良原一高も言っていた観点だけど、対象を正面から最も精密に、正確に描き出そうとする方が考え方的にも、たぶんあってる気がする、土門拳の弘仁仏や柴田敏雄の仏像も、ニューカラーの正面もそういう「物の正体を最も正確に暴くには?」があったんじゃなかった?
ともあれ、西洋美術史を一旦やり直して理解度を上げたい。

でも、中心にポンッ以外のものも見ていこうと続ける中で、撮るまでの過程が気になって、昨日気になっていた深瀬昌久を見に行ってきたわけですね。

深瀬昌久の「歩く目」というシリーズがあるのですが、これがまさしく登山の時に感じ入るあの感覚にすごい近いことをやっていて没入できてしまったわけです。主客未分の状態で撮影されているっていうけど、あの疲れ果てた瞬間に景色の境目がわからなくて、なんか景色がこっちを見ているような瞬間、それは確かにあるし、その時に山では古木や岩が目の前にいることがある。見といてよかったなと、東京都写真美術館お勧めです。
図書館の開館時間伸びて予約もいらなくなったので、もっと通おうと思う。

まだ調べ物を始めたばかりだし、仕事は忙しいし、百名山も回りたいので、制作は時間がかかるだろうけど、いつかは上記の事を形にしようと思うのでした。

そういえば、最終的な出力手法を大判や中判の作家と同じにしたい、たぶんそれが自然だ。そしてそれは縦フォーマットな気がする。対象物が人ではないが、人のように見えていて、それを全身像として撮るのが正しい気がする。と思ったのでカメラを買い替えた、Z7IIとX-T5。
アスペクトモードなのだけど、この二つは5:4の撮影モードがある、つまり中判フィルムやシノゴと同じ状態で撮影時に物を見ることが出来るカメラだから。同じことが出来るのでGFX50SIIにしようと思ったのだが、重い、重すぎる。
ライカで身軽に動くことと、大判が合わさったようなことが出来る世の中になったのだから、軽くて高画素で見る時に35じゃなくて67や45で見れるものを使おうと思った。

ちなみに、1:1.25比率が使えるカメラって実は少なくて、Z7II、X-T5とX-H2、GFXシリーズ(1:1.16もある)、fpl(6×7の1:1.23がある)あたりなのかな。Z8にはなぜかついてないので、スチル向けじゃないんだと思った次第。
あとキヤノンやソニーにもなかった。動画がメインになってきているけど、中判や大判をハンドサイズで持ち運べるっていう方向も安いカメラであればいいのに……。
Z7IIとX-T5にはどちらも40㎜のレンズが付いていて、これはプラウベルマキナなんだと思い込んで使っている。

若松観音で撮影した地蔵菩薩、首が無いということは廃仏毀釈の影響で首を斬られたんだと思う。今は石が載せられている。富士山の修験道の本の図録で見た後に、実際に山形県の山の中で同じものを見るとは思わなかった。明治維新が犯した文化大革命っていう印象を受ける。


登山ブログを書いたり、山で写真を撮っています、登山写真で気が付いた技術をひたすらつぶやきます。