Sugarepractice、日々の写真と徒然_写真の見方を知ると撮り方を知れる?

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こんにちは、Redsugarです。

2019年10月からtwitter上で行っているsugarpractice、2月が始まってしまいました、1月末から2月までは本当に悶々と、写真と登山やめようかなと思い詰めるくらい悩んでいた時期でしたが、とある本との出会いや勉強が気持ちを楽にしてくれました。

なぜ勉強するのか、というところで「楽しいことを探す」「自分の地図を広げる」というのがあります、勉強して思いつめすぎとも言われたのですが、いろいろな人と話していて思ったのは何よりも「知識不足」「見たことあるものの少なさ→世界の狭さ」でした。

面白いことを発想するための泉の少なさに気が付いたこともあり、その源泉を増やそうと思ったりした次第です。

ちなみに、勉強して思ったのですが。写真の見方がわかると写真の撮り方が変わるというか、必要な技術などや世界のとらえ方への理解が上がるので、漠然と構図の勉強をするよりもはるかに効果があると思いました。

個人的に視点の一つをくれた本を、紹介したいと思います。

「たのしい写真―よい子のための写真教室 ホンマタカシ」

古本で見つけて手に取ったのですが、写真史の勉強に載っていたことの内容で、写真とはどう世界を捉えているものなのか、というところに関してブレッソンとニューカラーとポストモダンを3つの大きな山として考え、それぞれの世界のとらえ方がどう構図に影響しているのかをサラッと教えてくれます。

僕はこの本で「世界のとらえ方や知識が知見を作り、それが視座となり撮るものを作る」ということを改めて理解させられました、写真集をただやみくもに見て真似をするよりも、撮る人が何を考えているのかを知ったほうが、なぜその構図か、なぜその絞りか、なぜその時間かなどがわかるようになると思います。

さて、それでは今週の練習を振り返ります。

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前半、何を撮っていいのかわからなくなる。練習の目的を見失う。絶望の期間でした、1月末は天気も悪いこともあり、光を見つけることができません。というか光を撮るってなんだ?何か理解できているのか?という気持ちに。

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実際僕は瀬尾さんなどの光の見方はこれっぽっちもわかりません、その視座が自分にはない、だから光の階段や光を探しても見つかるわけがない。それを痛感してどうしたらいいのかわからず焦りだけが募ります、何を練習したらいいのか、何を目指すのかがわからなくなっていました。

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とにかくSNSで見るような面白いものなのか、面白い?というかSNSに上がる写真って何が良いんだ?中身はあるのか?一体何なんだ?という疑問が湧き上がります。今見直すとこの段階で僕は見よう見まねで決定的瞬間を追っているようです。

決定的瞬間の原題はImages a la sauvette、訳すると「かすめ取られたイメージ」で日本語と全然ニュアンスが違う……

ブレッソンやそれに紐づくクラインやフリードランダーといった後世の作家、木村伊兵衛も、ブレッソン流の物事の均衡が取れた瞬間のイメージを抽出するという世界観らしい、その知識がないと、見よう見まねで撮っていてもその境地に達するまでで50歳になりそうです。

そしてその境地は遥か昔に克服され、現代に継承されています。大きな流れの中で見れば終わったことなのに、自分では成長と感じてしまう、それは意味がない。

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自分としてはよく見るこういう瞬間、何がいいのかわからないけどバランスがとれている気がする、漠然とした「何かわからないけどいい気がする」の思想的な回答の一つを提示されたのが今週でした。

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レンズを変えればどうにかなるだろうか?超広角をつけてみるも何を見ればいいのかわからず、苦しみます。

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正面からとらえる、フィボナッチの3を利用した構図を作ってみる(画面が3つの大きな横ラインで構成されている)などを試しますが、しっくりきません。

ホンマタカシさんの本を読んで、ニューカラーの思想などを勉強したのが月曜日の夜から火曜日の出勤前、衝撃的でした。そして、僕は改めて決定的瞬間は求めてないんじゃない?と至る。

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そうしてようやく晴れの日がやってきた、うつうつとした気持ちにもようやく終わりが見える。

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電車に乗るまでは光を探すという、瀬尾さんのお題を考え続けていたのですが、電車で本を読み始めて、勉強して考え方を学んだあとに写真見ないと意味なくない?ってなる。

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ニューカラー的な時間のとらえ方、アンチクライマックス、世界はそこにずーっと連続して続いている、そのアフォーダンスを抽出するような捉え方。決定的瞬間における物事の極端なバランスではなく、すべては等価であるという対極の考え方。なんで絞り切るのか、それはすべてを等価に写したいからという一文に、「あ、思想の表現が構図と技術なんだ、当たり前のことを忘れていた」となりました。

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ニューカラー的な発想方法で大崎の街を歩く昼休み。

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被写体と正対して、真正面から、画面全てが等価であるように写りますように、そういう練習を開始します。

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撮り方が明確に変わった瞬間でした、考え方が変わるとなぜ構図を整理するのか、なぜ絞るのかがより明確に思考に刻まれます、するとファインダーを見たときに自然と「立ち位置がここじゃない」というのがなんとなくわかる。

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とりあえず撮るのが楽しくてしょうがなくなる。

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とにかく、真正面から、まるでニュートポグラフィックスみたいに真正面からとらえる。

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思想が撮り方を変える、で本を読むうちにブレッソンとニューカラーの項目で気づきがありました、40年代からカラー写真は存在していたのにエリオットポーターさんくらいしか著名な方がいません。ブレッソンもエグルストンに「カラーなんてくだらないよ」とか、アダムスも「カラーは散文的過ぎる」という言葉を残しているようです。(後藤繁雄のインタビューより)

風景を極めるでもモノクロは表現的であるという項目がありました、考えるにブレッソンがイメージをかすめ取るという際に起こっている事象や事実のバランスの強調の際に色って邪魔になるんじゃない?とか

上記から、モノクロってそもそもプリミティブになる、対象が抽象化される特徴があると思うのです、そしてそれを考えたときに、アキラタカウエさんというコンセプチュアルアートの写真を撮る方の写真を思い出したました。

白黒が多いことや、長秒を利用したもの、時間を超越したようなビル群。これはビルという巨大建築物の超然性や、人よりも大きな時間スケールを持つものと考えたときに、それを表現する手段として最適なのはなんだろうと。すると確かにモノクロで長秒にしかならないのでは?とおもったり……、あくまで僕が思ったことにすぎませんが。

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そんなことを考えながら、モノクロで対象に正対して撮影することを始めます。

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空間の中に浮かび上がる被写体がよりシンプルに表れるモノクロ、被写体そのものを写すためには確かにモノクロのほうが良い。と考えたときに、カラーとモノクロをどう考えるかという部分の判断基準が、「それをどう捉えるか」という問題にあるような気がしてきました。

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被写体を見るのか、全体の総和を見るのか、今のところ僕はこれくらいの考え方しかないのですが、この考えの答えが絶対に出ていそうな気がしています。書籍を探そう……!

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在宅の金曜日と土曜日はひたすら気持ちをニューカラーにして練習です。

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夕日の時間帯でなければ外に出ることが出来ず、沈みゆく日の光を追いかけた水曜日でした。

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でも確かにこういうのなんか、見たことあるぞというのも数枚。

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複雑な構図を考えるのではなく、まず気になった被写体や光の真正面に立ち、それを正面から撮影してみる。そしてそれの何を表現したいのかを考えて、モノクロかカラーを選ぶ。僕がそれをどうとらえているのか?

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ということを考えた1週間でした。あと望遠レンズでF32を使う練習もしていました、結構F40とか楽しいです。世界が変わります。

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そして日曜日、社山にいきましたが、ここで練習を元に風景の撮り方を少し変えてみました。前景となる画面下部に楔となる「正面からとらえたオブジェクト」を置いたりし始めます。

当分の間は、ニューカラーの勉強を進めていきたいと思う2月初めでした、日本写真史の本も届いたので、合わせて読み進めたいと思います。

登山ブログを書いたり、山で写真を撮っています、登山写真で気が付いた技術をひたすらつぶやきます。