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2023.07.31 記録


大好きなおばあちゃんに、感謝と追悼の意を込めて



おばあちゃんが亡くなった。
ベッドの上のおばあちゃんはだいぶ小さくなってしまっていて、もういつものように「ゆうきちゃん」と呼んでくれないのだと思うとただただ寂しくて悲しかった。

膵臓癌のステージ4と診断され、余命が3〜6ヶ月と言われてから7ヶ月。78歳、あと1ヶ月で79歳だった。

最初に手術をしてからどんどん痩せていって、何回か抗がん剤をして、髪が抜け落ちると一段と痩せて見えた

春には京都に桜を見に旅行に行った。
前日までずっと降っていた雨がその日は止んで、満開の桜を一緒に見た。綺麗だった。
この頃から私もできるだけ名古屋に帰っておばあちゃんに顔を見せるようにした。

それからおばあちゃんは疼痛のために再び入院した。コロナで面会はできなくて、とにかく家に帰りたそうにしていた。退院してきてからは薬で痛みはだいぶ良くなっているように見えて少しだけ安心した

7月の半ばに鳥羽に旅行に行った
長い時間歩くのはしんどくなっていたので車椅子を借りて、いとこ家族と犬たちを連れて
それが最後の旅行だった。

旅行から帰った日、腹痛で病院に行くと腸閉塞になっていた。そのまま入院、緊急手術になった。
それが、つい1週間前のこと。

手術は無事終わったけれど、人工肛門になって、1-2週間は家に帰れなさそうな様子だった。
相変わらず面会はできないし、私も三重の病院にいてすぐには会えない状況
しばらくするとせん妄のような症状が出てきたと母から連絡があった。病院に入院しておばあちゃんがおばあちゃんじゃなくなっちゃった、と電話口で言われた。せん妄は可逆性だからきっと大丈夫、早く家に帰ったらきっと良くなると自分に言い聞かせた。

7月29日、土曜日の朝6時前に母から電話があった。
電話口の母は明らかにただ事ではない様子で「おばあちゃんがもうだめかもしれない」と言った。
血圧が下がって呼吸も落ちてると病院から呼ばれたようだった。「わかった、運転気をつけて。」とだけ言って電話を切った。
朝から自分は予定があって、病院の宿舎を出ようとしていた所だった。とにかく状況が分かるまでは予定をこなそうと自分を落ち着かせて宿舎を出た。

何をしていても頭にはずっとおばあちゃんの事があって、帰るべきか既にある予定通り過ごすべきか悩んでいた。
再び母から電話があった時、母は病室にいておばあちゃんの苦しそうな声も聞こえた。耐えきれなくて「今日中には行く。夕方には行く。」と伝えると「ゆうき来るって!それまで頑張ろうね!!」と母や伯母が声をかけるのが聞こえた。

自分の可能な限り速くおばあちゃんのところに行く事、私の選択肢はただそのひとつに。
待たせてはいけないと思ったし、頑張らなくていいとも思った。
これまで十分頑張ってきて、痛くて辛い様子を電話越しに聞きながらもう到底頑張ってとは言えなかった。
だからと言って、もういいよ、とも言えなくて、ちょっとだけ最後に会えるまで待っててくれるなら急いで行こうと決意した。

名古屋に向かう道中、はやく会いにいかなきゃという思いと、逃げ出したい気持ちがせめぎ合っていた。
誰かが苦しんだり痛がっている様子を見るのが本当に嫌で、ましてやおばあちゃんのそんな姿を見たくないと思った。
私が神様に願っていたことはただひとつで、おばあちゃんが苦しむことなく寿命を全うすること。完治して元気に歩けるようになったらそれはもう最高に嬉しいけれど、現実はそうならない可能性の方がものすごく高いことはよくよく分かっていた。終わりの時が近づいているのも分かっていたし、遠くに住んでいることで死に目に会えないのも覚悟はしていた。

末期の患者さんと接したことは何度かあるけれど、家族となると感覚は全く違った。
患者さんに対しての"自分にできることがあるならしたい"という感情以上に、"嘘であってほしい"という感情が勝って、とにかくいつものように、病気なんて無かったように接した。

本当は心のどこかで、患者さんにするように、じっくり話を聞いて不安や心配を吐露できる相手になって、幸せな人生の幕の閉じ方を考えたりもしたいと思っていたけど、私には「おじいちゃんがこんなんやと死んでも死にきれんなぁ」と冗談を言っておばあちゃんを笑わせるので精一杯だった。
確実に近づいてくる死をおばあちゃんから遠ざけたくて、受け入れ難い現実をとにかく逃避したくて、患者さんにするようには、全然、できなかった。

私が明確に医師を目指すようになったのは、少し離れた親戚が膵臓がんで亡くなる直前、病室で苦しむ様子を見たのがきっかけだった。
苦しそうに呻く姿を前に、ただ立ち尽くして何もできない自分がもどかしくて、医師になろうと思った。

医師とはちょっと違う道に進んだ今、来年から医療従事者として働くことになった私は、やっぱり何もできなかった。聴覚と触覚はまだ残っているだろうからと手を握って耳元で「有希だよ、来たよ。」と声をかけた。下顎呼吸の状態の中、言葉にならない声で反応してくれた。親戚の中で1番最後に私が駆けつける時までおばあちゃんは待っていてくれた。

おばあちゃんの周りに親戚が集まって、いろんな話をしながら懐かしい話をして、時には笑い声も響いたりして。いつもおばあちゃんの家でそうしているような時間が流れた。

その夜、みんなに囲まれておばあちゃんは息を引き取った。

死の前に人は無力で、目を背けたところで現実は変わらなくて、たくさんの思い出を頭に思い浮かべながら手を握ってただその時を待つことしかできなかった。

それでも私は医療に携わりたいと思う。
生まれたならば必ず死ぬ人間の、それぞれに与えられた時間のそれぞれの生き方に寄り添い、それぞれの幸せに向き合いたいと思う。
職業や肩書は関係なく、ただ同じく生まれては死ぬ人と人として、お互いの人生に触れ、長く短い一生のうちの一部の時間を医療という分野で支える人になりたいと思う。

今は少しでも油断すると涙が溢れて毎日のように目を腫らす日々もいつしか元に戻っていくだろうけれど、私をたくさん愛してくれたおばあちゃんを何度でも思い出して泣いて笑って感謝したい。

おじいちゃんから聞いたけど、いつも孫が来る時にそれぞれの好きなものを用意してくれてたんだね、気づかなかったな。「有希ちゃん、ヨーグルトあるよ」って言われて、何回「いやいい、いらん」って言ったかな。全部、食べたらよかったね。
とりあえず、今から目で見る事ができるおばあちゃんとの最後のお別れに向かうね
それで、今週末のテストのためにちゃんと勉強して単位を取って国試も受かって卒業するよ

愛してるよ、ありがとう

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