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海のニッコー、陸のトーコー

かつてこのような言葉がありました。

ニッコーは、日本光学工業株式会社(現、㈱ニコン)。 
トーコーは、東京光学機械株式会社(現、㈱トプコン)。
ニコンは1917年7月、岩崎小彌太の個人出資により光学兵器の国産化を目指して設立され、
トプコンは1932年7月、服部時計店(現、セイコーホールディングス㈱)の
測量機部門を独立させ光学兵器開発を目的に創立しました。

第二次大戦以前には、日本光学工業は海軍の、
東京光学機械は陸軍の主軸となり光学兵器の開発を担当します。

いきなり、戦艦大和の写真に驚かれた方も多いと思います。

しかし戦艦大和は、のちに日本がドイツをしのぐカメラ大国になる
礎となったといっても過言ではないでしょう。
それはこの戦艦大和に搭載された「15メートル測距儀」です。
その雄姿は甲板後部「艦橋」最上部、左右の張り出しに見て取れます。

戦艦に搭載される機器は
「絶えず、振動と湿度、温度変化、気象変化、海水被り」
などに悩ませられます。

光学兵器開発はこのような悪条件下においても、
機器本来の性能を発揮させるだけの技術力が必要となるのです。
 当時の「日本光学工業」は見事にこの悪条件をクリアしました。
高い技術力集結の証しを具現化した出来事です。

測距儀とは、戦艦から大砲を撃つ際、
目標対象までの距離を計測する機器です。
戦艦大和に搭載された15メーター測距儀の誤差は、
20,000メーター先で200メーター程です。
この誤差は当時の最高水準と言っても大げさではありません。

光学技術は軍事兵器開発の「要」です。

この軍事兵器開発の要でしのぎを削りあった「ニッコーとトーコー」が、
後世のカメラ開発においてもライバル関係にあったことには納得できます。



平和な時代を迎えると倒産の危機に直面したNikon。

大戦も終結し平和な世の中が訪れると、
軍需産業の衰退に伴い、ニコンも倒産の危機に直面します。

そこでニコンは、軍需産業で培った技術を
民生品転用への道を模索します。
 
そして平和な世の中に向けて送り出す主力製品をカメラと位置付け、
軍需開発で培った光学技術・機械技術を駆使し、
1948年、初のカメラを世に送り出しました。

そのカメラは一眼レフではありません。
一眼レフの優勢は今一つ後世に譲ります。

この時代に発売されたカメラの多くは、
「レンジファインダーカメラ」、「二重像合致式カメラ」
などと言われます。

このカメラの原理は、
カメラの中に戦艦大和ほど巨大ではないにせよ
測距儀(「レンジファインダー」)を組み込み、
それまで目測に頼っていたピント合わせを、誰にでも確実にした機構です。

レンジファインダーカメラの代表格は、
やはり“Leica”と“Contax”です。

ニコンはカメラ開発に当たり、操作性及び生産性を重視し、
裏蓋はフィルム交換と装填の確実性を容易に確認できる取り外し式、
レンズマウントは迅速に交換可能な、“Contax”に範をとりました。

シャッター機構は “Contax”が採用していた「鎧戸縦走り式」は
構造が複雑になるため、
メンテナンス性に優れた「横走り式」の”Leica”に範をとります。

最も後世の一眼レフカメラNikomatなどはコパルが開発した
縦走り式シャッターを採用しますが、この理由はまた別の機会に。

このカメラはNikonⅠ型とよばれ試作機の20台と、
量産品は300台に満たないといわれ
現在ではコレクターズアイテムになっています。

NikonⅠ型は画面サイズが「Leica版の24㎜×36㎜」より横方向を若干詰めた
「日本版と呼ばれる24㎜×32㎜」でした。
このサイズは画面の横方向サイズを小さくすることで36枚撮りフィルム一本から40~41枚撮影できました。まだ戦後復興の兆しが見え始めて間もなく、一枚でも多くの写真を撮影したいという思いと時代背景が伺えます。 

ですが当時日本に進駐していたアメリカ軍の自動現像機はいわゆる
ライカ版=24㎜×36㎜対応であったため、
「現像機にかけるとフィルムが画面途中で切断される」
というクレームが舞い込みました。

画面サイズを小さくすることで、
一枚でも多く撮影できるという思いがあだになりました。

そこで、画面サイズを進駐軍の自動現像機にかけても
画面途中での切断にギリギリ影響がない24㎜×34㎜に改め、
Nikon S型を発売します。

最初期のNikonⅠ型は「明るい暗箱」などと言われ、光漏れを起こすなど
加工精度も未熟でさまざまなクレームに悩まされました。

 海軍で培った技術も、カメラ開発には苦労したようです。




刷新のNikonS2今も使いやすい名機。

Nikon S型までの製品は、
ボディ鋳造の際「砂型」を用いていました。

砂型で鋳造されたNikon Ⅰ型では「明るい暗箱」などと不名誉な
称号を与えられ、次期の新型には加工精度向上のため
「アルミ型」をボディ鋳造に用いることを決定し、
飛躍的に精度の安定化に成功しました。

このカメラが今回の主役Nikon S2です。
S2は1954年~1958年まで製造され、
総生産台数は56,700台程度と言われています。

このS2で画面サイズが念願の
世界標準である24㎜×36㎜になり、
フラッシュが使えるように、シンクロコネクターも追加されました。

シャッター速度もフィルムの高感度化に合わせるように
1/1,000の高速が設けられます。
現代でも実用に不足が生じないスペックです。

戦前の海軍で培った光学技術はファインダーに生かされます。

視野は50㎜レンズ装着時で等倍、50㎜のブライトフレームが見えます。

特筆すべきことに測距部はオレンジに着色されその周囲は薄い緑の着色で
コントラストもはっきりしています。

操作系統では、フィルム巻き上げはレバー式、巻き戻しはクランク式。

シャッターダイアルは、高速側1/1,000~1/30までと、
低速1/30~1/1及びTまではガバナー切り替えに伴い2段式です。

後世の機械式カメラの多くとの違いは、
このシャッターダイアルの切り替えですが
これも慣れてしまえば自然に指が動くようになります。

小生はこのカメラのファインダーのクリアさにほれ込んでいます。

特に測距部のオレンジと緑の補色関係は
低照度下で威力を発揮し測距制度を高めます。

カメラが発売された当時のセットレンズはNikkor H・C 5cm F2です。
このレンズの近距離・開放での描写は、
Nikonらしくない柔らかな世界が広がります。
 
もう少し柔らかな描写を好む方は、
Nikkor S・C 5cm F1.4はいかがでしょう?

Nikkor S・C 5cm F1.4はある写真家に、
「このレンズの、開放・近距離の描写だけで一冊写真集を刊行してみたい」
と言わせたほどの銘玉です。

開放値F2、F1.4共々基本設計に変わりはありませんので、
選択に際してはデザイン・価格等で考慮することも可能です。

余談ですが、
小生はこの時代のグニャリと曲がったNikonロゴに惹かれます



ニコンはその後、Nikon SP、Nikon S3。

NikonS3からファインダーブライトフレームを簡略
セルフタイマー無し等、一部機能を省略し価格を下げた
(当時の広告では「奉仕版」)
Nikon S4を開発し全盛期を迎えます。

カメラボディの進化だけではなく、あらゆる撮影に対応可能な
レンズ・アクセサリーの開発も同時に進行した時代でした。

このNikon S2はその後に一眼レフNikon Fを送り出し
ドイツのカメラ業界を脅かすほどにまで発展した
ニコンの礎になった一台です。

小生、このカメラでは開放での描写を楽しむため
あえてASA(ISO)50クラスのフィルムを詰めて持ち出しています。

低感度フィルムですので時によってシャッターは低速になりますが、
ミラーショックのないレンジファインダーカメラのメリットにより
手振れを気にすることなく撮影に専念できます。

当時のカメラ雑誌に、
「いろいろなメーカーのカメラは高級機でもある日突然壊れてしまう、
しかしニコンのカメラは、壊れないカメラだ!」
とニコン製品を評した一文があります。

60年以上前に製造されたカメラとレンズの組み合わせでも、
ニコン製カメラは充分に機能し撮影を楽しめます。

あなたも、クラシックカメラとオールドレンズの組み合わせで
ちょっと手間はかかりますが、
カメラとレンズの特徴を生かした
一枚を撮影する世界をのぞいてみませんか?

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