夏フェス_

「夏フェス」の提供価値を3つに分解する

『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』(blueprint)の内容をベースに、夏フェスをモデルケースとして2010年代のマーケティングのあり方について考える連載企画です。今回は第1回目。

ちなみにこんな構成を考えていますが、変更するかもしれません。

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①提供価値の拡張
夏フェス=コンテンツ×エクスペリエンス×コミュニケーション

②協奏のサイクル
「参加者が主役」、すなわち「ユーザーは事業のパートナー」

③「周辺」のユーザーを取り込む
夏フェスはなぜ“濃い音楽ファン以外”にも支持されるのか

④SNS時代の基本原理 その1
夏フェスは最強の「自己演出コンテンツ」である

⑤SNS時代の基本原理 その2
夏フェスで理解するスクランブル交差点(ハロウィン、サッカー日本代表戦)

⑥「モテ」はビジネスをドライブさせる
「カップルでフェスに来てる奴らは○ね!」

⑦時代に合わせた事業ドメインのスライド
ロッキング・オン社と渋谷陽一氏の何がすごいのか?

⑧ユーザーを育成する
「フジロック型」ビジネスと「ロッキン型」ビジネス

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ゼロ年代半ばにはブーム的に扱われた「夏フェス」は、今では一部の音楽ファンのお祭りにとどまらない「夏の風物詩的イベント」に。なぜそうなったか、その理由は端的に言えば「夏フェスという催しの提供価値が拡張されたため」です。

もともと「いろいろなアーティストのライブが見られる」ことが唯一にして最大の売りだった夏フェス(97年のフジロックの様子を報じた当時の雑誌などを読むと、「フェスにはライブしかなかった」ということがよくわかります)は、その価値を担保しながら「会場にいること自体を楽しめる」「フェスをきっかけとして参加者同士のつながりを楽しめる」という魅力を新たに備えていきました。

いまどきのビジネス用語っぽく置き換えると、「コンテンツ」だけでなく「そのコンテンツを提供する過程でのエクスペリエンス」「コンテンツ・エクスペリエンスに付随するコミュニケーション」までが設計されたイベントが夏フェスである、というわけです。

この状況が必ずしも意図して作られたわけではないというのはおいおい触れたいと思いますが、結果として今支持されるビジネスの要件を満たしているのが夏フェスであると言えると思います。

どの領域のビジネスであっても、「コンテンツ」「エクスペリエンス」「コミュニケーション」をいかにシームレスにつなぎ合わせるか、というのはとても本質的な問いです。自分が関わっているジャンルにおいて、この3つは何にあたるかというのを考えてみると発見があるかもしれません。

>>以下『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』より引用


フェスの魅力を「フェスが参加者に提供している価値」という観点から考えると「①出演者」「②出演者以外の環境(衣食住)」「③参加者間のコミュニケーション」という3つの要素に整理することができる。

①出演者

まずは大前提として、大物アーティストから期待の新鋭まで様々なタイプのアーティストがずらりと揃っていること自体がフェスが提供する楽しみの一つである。多くの音楽ファンは、普段はなかなかチケットの入手しづらいアーティストや日本で見られることなど滅多にない海外のミュージシャンの名前が並んでいるのを見るだけで一気にテンションが高まる(それゆえ、その並びが自分のイメージしていたものと違った場合、落胆するだけでなく怒りに近い感情が生まれることもある)。

この「ラインナップを見るだけでわくわくする感じ」はそのフェスに参加予定のない音楽ファンにとっても同様で、自分が行かないフェスのタイムテーブルを見ながらどういうプランでステージを回るか想像するだけでも十分に楽しい。

フェスのチケット代の多くは1日あたり1万円を超えるケースが多く、その支出は決して小さいものではない。ただ、フェスに出演するアーティストの単独公演のチケットが高額の場合は6000円~1万円くらいであることを考えると、チケット代単体に関して「元をとる」ことは必ずしも難しいことではない(もっとも、単独公演では2~3時間程度のライブが行われるのに対してフェスの各アーティストのステージはどんなに長くても2時間弱、大半が 30 分~1時間ほどであることは留意する必要がある)。

②出演者以外の環境(衣食住)

通常のライブであれば「その出演者を見ることができる」ことが提供する価値の大半を占めるはずだが、フェスにおいては出演者以外の環境全体が参加者に楽しみや喜びをもたらす要素の一つとなる。

その中身は多岐にわたり、またフェスそれぞれのあり方によって異なってくるが、基本的には下記の3つに整理できると思われる。
衣:グッズ、ファッション
食:食事
住:立地やインフラ

<衣:グッズ、ファッション>
多くのフェスではオフィシャルグッズとしてそのフェスのロゴなどがプリントされたTシャツやタオルが販売されている。これを購入することは一種の記念であると同時に、それを友人同士で身につけることで仲間意識のようなものを感じることもできる。

また、フェスは山間部や海辺など日常生活を行う場とは異なる空間で開催されるものも多く、それに対応するために必要な服も異なってくる。ロケーションに合わせてベストな機能を持った服を選ぶこと、さらにはそこに「おしゃれか否か」という視点を持ち込むことなど、「フェスに何を着ていくか」を考えること自体が一部の参加者にとっての重要な楽しみになっている。

<食:食事>
食事を提供するケータリングはフェス会場全体に点在しているが、たいていの場合は飲食ブースの集中しているエリアが会場内に存在する。単なる焼きそばやフランクフルトといった古き良きお祭りの屋台的なものは必ずしも主流ではなく、アジア系の料理からラーメン、どんぶりまで多種多様なケータリングが並ぶ。都内の有名店やフェスが行われる地域の特産品が食べられるお店もあり、お酒も生ビール(ナショナルブランドのものだけでなく地ビールを出すお店もある)から日本酒まで豊富に揃っているなど、仮にライブそっちのけで食事に興じていたとしても存分に楽しめるようになっている。近年ではフェスで供されるような食事を表す「フェス飯」という言葉も定着してきた。

<住:立地やインフラ>
フェスの参加者はまる1日をその場所で「生活」することになるが、単におしゃれな格好をできたりおいしいものを食べられたりというのはあくまでも「生活」の一側面にすぎない。

会場から最寄駅までのアクセスは整備されているか、清潔なトイレが十分な数あるか、道は歩きやすいか、ケガや体調不良になった場合に対応してもらえるか、小さな子どもを連れていっても大丈夫か……などなど、様々な不安が残ったままでは参加者が思い切ってフェスを楽しむことは不可能であり、そういう意味ではそれらの懸念事項を払拭するような生活インフラ(およびそれがもたらす安心感)もフェスが提供する価値の一つと考えることができる。

ただ、ここについてはフェスによってかなり差があること、さらにはどこで行われるフェスか(完全に野外のフェスか、大型アリーナなど屋内施設を活用するフェスか)に左右される部分が大きいことを補足しておきたい。また、この手の参加者の不安を運営サイドがどこまで汲むべきか、どこまでが「自己責任」の範疇か、という問いに対して万人が納得する回答は存在しないというのもまた事実である。ちなみに、最低限の生活環境を確保するためのインフラ整備だけでなく、ステージ間をつなぐ道の装飾などそこにいるだけで楽しくなるような空間を作るための工夫も多くのフェスで行われている。

③参加者間のコミュニケーション

豪華なライブがたくさんあり、かつそれを支える環境も揃っているフェスは、1人で参加しても十分に楽しめるものである。一方で、今の時代におけるフェスの価値を決定づけているものとして「参加者間のコミュニケーション」という概念を外すことはできないのではないだろうか。

ここにはいくつかのレイヤーが存在する。まず、友人・知人や家族・恋人と一緒にフェスに参加するケース。この場合、準備から当日までのプロセス全てが楽しい思い出の一つとなるはずである。状況によっては、ライブを見ることよりも会場でともにご飯を食べたり休憩中の会話で盛り上がったりといったシーンの方が記憶に残るものになるかもしれない。

次に、会場内における新たなコミュニケーション。いわゆる「ナンパ」的なものもあるかもしれないが、ここでは「同じライブを見ていて、思わず見ず知らずの人たちとハイタッチをする」「その流れで集合写真を撮る」、もしくは「ライブの合間に古い友人と久しぶりに再会し、一杯だけビールを飲んだ後にそれぞれが見たいライブの行われるステージへ向かうべく別れる」というような、フェス特有の一期一会的なものについて言及しておきたい。

こういった参加者間の偶発的な関わり合いは、会場の至るところで行われている。『ロックフェスの社会学』から、そういったシーンがより具体的にイメージできる記述を引用する。

 フェスに行くメンバーは毎回同じではないし、フェス中にも合流を繰り返し、その組み合わせはめまぐるしく入れ替わる。参加者たちは現地で会う約束をするときに、しばしば「乾杯しよう」という言葉を用いる。その言わんとするところは、「フェスのなかで一緒に過ごすのは、ほんのひとときかもしれないけど、会いたいね」ということであり、この言葉はフ ェスにおける流動性の高さを物語っている。(P196)

 筆者の目の前ではライブの間、盛り上がり続けた初対面の男性二人が、お互いの健闘をたたえ合うかのようにハグを交わしていた。その時、一方の男性が携帯電話を取り出し「また会おうよ」と、連絡先の交換を申し出た。しかし、もう一人の男性は「そんなことしなくても、どこかで絶対会えるよ」とそれを断った。おそらく申し出を断った男性は、申し出た男性よりもフェス経験が豊富だったのだろう。フェスの共同性が一時的であることを知っており、しかしながら、その価値を認める彼の態度に嫌みな様子はなかった。申し出た男性は一瞬残念そうな表情をみせたが、それを受け入れ、次の瞬間に彼らはふたたび握手とハグを交わしていた。(P199〜P200)

さらに考え方を広げれば、リアルでの接触はなくてもウェブ空間上でのやり取りをコミュニケーションとして捉えることもできる。 Twitterでフェスの様子をリアルタイムで紹介する参加者のアカウントに同じライブの感想リプライを送るのも間違いなく「参加者間のコミュニケーション」であり、広義にはそういったアカウントを眺めているだけでもコミュニケーションが発生していると言えるかもしれない。

また、これは参加者同士ではなくフェスに参加していない層も関与するケースだが、フェスで撮った写真をFacebookやInstagramといったSNSに投稿してリアクションをもらうというのもフェスに付随するコミュニケーションの一つだ。こういった参加者以外へのアクションが、新たなフェス参加者を呼び込むきっかけになる場合もある。

以上が「フェスが参加者に提供している価値」に関する説明である。これらの3つの価値を改めて時間軸でプロットしなおすと、下記のようになる。

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次回は夏フェスを語る上でたびたび登場する言葉、「参加者が主役」という考え方がフェスビジネスにどんな影響を及ぼしているか、そしてそれがフェスの形をどう変えたかについて掘り下げます。


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