キスの記憶
唇を重ねた瞬間、記憶が蘇った。
「あの頃」が堰を切ったように溢れ出し、私を満たしていく。
あの頃の景色。一緒に行った場所。眺めた夕日。着ていた服。あなたの重さ。体温。
強引にこじ開けられた扉から、ほとばしるように「あの頃」が流れ続けた。甘美な思い出も、切ない記憶も。楽しかったあの日も、悲しかった最後の日も。揺れ続けた当時の気持ちも。
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「唇にも記憶があるんだな」
長いキスを終えて唇を離した浩之は、伏目がちに呟いた。どうやら、彼にも同じことが起きたみたいだった。
音楽が記憶を呼び起こすように、キスにも記憶があるらしい。しかも、音楽なんかよりもずっと強烈なのだ。
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放置していたFacebookのアカウントに浩之からDMが届いたのは、もうかれこれ1年前のこと。
妻と子供と三人で京都で暮らしていることや、会社を興したこと、そして今でも私のことをしばしば思い出すと綴られたメッセージは、「いつまでもお幸せに。もしも何か力になれることがあったら、いつでも連絡ください」というやさしい言葉で締めくくられていた。
その夜、私は一睡もできなかった。そして、散々迷った末に返事を書いた。
すぐに返事が戻ってきて、その日から関係が再開した。
詳しいことは何も話さないつもりでいたのに、私は結局、悩み事を次々に打ち明けた。やがて二人はLINEのアドレスを交換し、頻繁にやり取りするようになった。
そんなある日のこと。いつものように相談をしていると、
「あのさ、どうしても気になることがあるから、ちょっと電話してもいい?」
と送られてきた。
「それは困る」
とすぐに返したが、間髪をおかずにLINEコール。相変わらず強引すぎる。ためらいがちに受信すると、昔のまま変わらない声が受話器の向こうからこぼれ落ちた。
「彩耶?」
「はい」
「彩耶の声、久しぶりだなあ」
「……。」
「あのさ、単刀直入に訊くぞ。彩耶、オレにまだ言っていない、すごく深刻なことがあるだろう?」
「…….なんで、なぜそんなことを言うの?」
「彩耶はね、もっとなんでもまっすぐに言う子だった。だから、何か余程のことがあったと思ってさ。」
「……うん。」
頬を涙が流れた。彼は静かに私を待った。
そして一度話し始めると、もう止められなかった。夫が子供をよく殴ったこと。私に対しても度々暴力を振るったこと。そしてそれは今でも続いていること。5年生になってから子供の挙動がおかしくなり、ついには学校に行かなくなってしまったこと。今は夫の一挙手一投足に怯えて暮らしていること。次第に涙が止まらなくなり、最後には子供のように泣きじゃくりながら話した。
話し終わると、浩之は静かに呟いた。
「彩耶、よく頑張ったな」
「ひとつだけ質問がある。夫が暴れても、高価なテレビとかパソコンは絶対に壊さないだろう?」
「うん」
「外ではいい人で、怒鳴ったり暴力を振るう相手は、家族だけだろう?」
「うん。なんでそんなことわかるの?」
一拍置いて、浩之が答えた。
「オレの親父もそうだっからさ」
私が息を呑む番だった。
「彩耶。お前さ、旦那の暴力のこと、他の人に話したことある?」
「ないよ……。誰にも話せない。」
「いいかい。とにかく人に話せ。まずはそこからだ。オレが必ず助けてやるから、今はオレを信じてオレの言う通りにしろよ」
「無理だよ」
「お前、確かお姉ちゃんとすごく仲良かったよな?」
「うん」
「じゃあまずそこからだ。」
この会話が、かれこれもう10ヶ月くらい前のこと。そして、その間もずっとアドバイスが続き、引きこもっていた子供が時折学校に行くようになった。夫も暴力沙汰を他人に知られたことに気がつくと、急にトーンダウンした。
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そんな浩之から上京の連絡があった。会おうと言われて何度か断ったものの結局は押されて、14年ぶりに再開したのが今日で、そして、まさかのキスだった。
浩之が突然抱きすくめて唇を重ねてきたとき、私は拒めなかった。ずっと前から、この日を待っていた気がしたからだ。
帰宅後、いつものように家族に夕飯を振る舞う。後片付けを終え、夫と子供が入浴を済ませると、最後に脱衣所に立った。
お化粧を落として顔を洗うと、シワが目立ち始めた40女の顔が姿を表す。服を脱いでいくと、老いと若さが戦っているような、中途半端な裸体が現れたる。私は一体いつの間に、こんなおばさんになってしまったんだろう? 浩之が最後に私を抱いた時には、まだシワなんてどこにもなかったのに。
湯船に身を沈め、久しぶりに抱きしめられた浩之の胸を思い出す。
もう夫には2度と抱かれたくない。
でも、きっと彼は今日も私のパジャマを強引に引き下ろして、体を重ねてくるだろう。
私に拒むすべなどない。子供はまだ小学生だし、シングルマザーをやっていく度胸も器量もない。
それに、私が選んだのは浩之ではなくこの人だから。
すべては自業自得なのだから。
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