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川の流れのように

ふと素敵な振付が生まれて嬉しくなる時がある。

これだけ情報が絶え間なく流れ込んでくる社会だとこれでもかと様々な振付家のピースを目の当たりにして正直影響を受けないワケにはいかない。

しかし、ごく稀に自分の中で温め続けてきた心地良い動きの連鎖が蘇ってくることがあって、「こんなもの皆さんにシェアして喜んでくれるかな?」と迷いつつも全身全霊で伝えると満面の笑みに取り巻かれたりして、あぁやっぱり借り物ではなく辻褄が合っているものが共感を呼ぶのだなぁと実感する。

素敵な振付は勿論素敵な曲によって喚起され、そんな素敵な曲は昔から死ぬほど聴いてきた音数の少ない素朴な曲であることが多い。若い頃はその少ない音の合間に耐えられずガチャガチャと余計な動きを加えてしまったものだが、年齢がようやく追いついて「間」はそのまま美しい「間」として尊重するようになってきたように思う。

今なら京都の襖絵も退屈せず何時間でも観ていられる気がするが、実際訪れてみたらこんな晩秋の寒さに耐えられず早々に退散の図は火を見るより明らかなのでやめておく。

「間」と言えば、音楽の中での「間」と身体の動きの「間」は必ずしも一致しないという面白さがある。勿論、一致した方が良い効果を産むことも多いだろう。音がガチャガチャと沢山鳴っているならば忙しない動きとかダイナミックな動きを当て、シーンと静まっているならばみじろぎ一つしない、その方が精神衛生上心地良いのはとてもよく分かる。

一致しない、のではなく僕の場合は一致させない、と言うべきか。音は連綿と続いているのに縫い糸の玉結びのような目立たないがしっかり止まっている動作を当てるとそこに風情が生まれる。逆に音が止まっているのに動きを止めないと次に続く音の群れを誘導することも出来る。

こういうことはダンスの現場で学んだというよりは他のジャンルで気付かされたりする。例えば下に添付したYouTubeの動画のように『ズン』とか『キン』というアクセントの音を弾いた後の宙を彷徨う手の美しさだったり。重要な音を奏でる前の共演者に投げ掛ける視線だったり。そういうものは映像だけでなく音だけを聴いていても何故か不思議と伝わってくるものなのだ。


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