次男の不登校のその後について

学校がつまらない次男の、その後のお話の、その後のお話。

前回のやりとりで、給食をお弁当にしてもらえることになった次男。
そこから、なんとか1週間は通えていたのだけど、ふと気がついてしまった。
「お弁当になったから学校が楽しい、というわけではない」

給食はお弁当にしてもらえたし、嫌な授業は見学したりさせてもらってしても、学校そのものがつらかったりするという気持ちが、なくなるわけではない。

結局、朝学校に連れていこうとすると、エビぞりになって拒否して大泣きして、家の柱にしがみついて部屋から出てこない。
またそんな日々に戻ってしまいました。

もはや、私は闘う気はないので、
「行かないなら行かないでいいよ。お休みが必要なら休んだらいいと思う。」と伝えると、次男はホッとして休むことに。
そこから1週間はずっとお休み。
次の週は大好きな図書の時間だけ行けたものの、その後はまたお休み。
次の週もその次の週も、ずっとお休みだった。

お休みし始めたときに、ゲームとYouTubeについては、放課後の時間だけと約束を決めた。
それ以外は、自由にしていいよ、と。
なので、朝はゆっくり起きてきて、テレビを見て過ごし、お昼ご飯を食べて、またゆっくり過ごしているとお兄ちゃんが帰ってくる。そこからはゲームをしたりYouTubeを見たりする。
そんな毎日をただただ繰り返して過ごしていた。
時々、私が細かい用事で学校に行くときは、次男も一緒に行くようにしていたけど、基本はずっと家にいた。

これはいつまで続くんだろうか。
ずっと家にいるなら、何かしら学習をさせた方がいいんじゃないか。
でもそしたら、なおさら学校に行かなくていいじゃんと思うんじゃないか。
ただ、正直なところ家にずっと次男がいるというのはかなりしんどくて、せめて学校だけは行ってほしいという気持ちもかなりわいてくる。
でも、だからといってしんどい場所でしんどい思いをさせるのがいいこととも思えない。。。

子どもが不登校になった時の親の葛藤の話は、聞いてはいたけど、なかなかにしんどい。
ずっと、ぐるぐるぐるぐる考えていました。

休養の終わり

そして、1ヶ月くらい経ったある時、ふと学校のお友だちの話が出た。
「◯◯くん、何が好きなんだろうね?今度はいつ遊べるかな?」
「遊びたいの?」「うん」
「そっか。好きなもののお話ができると楽しいよね」「うん」
「学校に行けば会えるとは思うよ」
「そっか、じゃあ学校行ってもいいかなー」と言い出した。

あまりに普通に言うから、びっくりしたのだけど、確かにゆっくり過ごしてきたことで、すごく心が安定して、なんなら家での暮らしに飽きはじめていた。
私もそろそろ何か学習を始めようかと、本格的に検討を始めたところで、お互いそれくらいの余裕が出てきていた時期でもあった。

だから、「あぁ、休養が済んだんだ。また少しがんばれるようになったんだ。」と私が思うのと同時に、
「やっぱり学校には行かないと」と、次男なりにずっと思っていたんだとも気付かされた。不登校の間、ゆっくり休むといいつつも、毎日お休みの連絡はいれないといけなかったし、その電話のことを気にしてはいた。

結局、その次の週から、少しずつ学校に行けるようになった。
最初はやっぱり嫌がって泣いていたけど、行けば楽しく過ごせるので、泣くこともなくなってきた。
まだ給食ではなくお弁当だし、見学の授業も多いし、ちょっと嫌なことがあるとすぐにメソメソしてしまうけど、とりあえず学校に行って、友だちや先生と過ごすのは楽しいみたい。

そんな風にメソメソしたり楽しんだりする次男の様子を見て、先生方はまだ不安定だと心配してくれている。でも、むしろ私には、今の次男はすごく安定しているように見える。
嫌な授業を嫌だと言えて、楽しいものを楽しんで。嫌なこともあるけれど、1日総じて楽しいからそれでよし、みたいな。

それは、次男のとてもとても自然な姿に見える。

社会と向き合う力

そう考えると、去年は、必死で学校というシステムに合わせていたんだなとも思えてくる。
今は、毎日必死ではないけど、それなりにがんばって学校に行き、それでも嫌なものは嫌だと言い、できることは精一杯がんばって、学校でのみんなとの生活を楽しんでいる。
支援を受けながら、自分なりに納得をつけながら、なんとか学校というシステムの中でがんばっている。

そんな姿を見ると、それを社会性と呼ぶのかもしれないと思ってきた。
できない我慢をすることではなく、多少納得いかないことはあるけど、それを受け入れながら、自分なりに付き合い方を見つけていくということ。

よく、行きたくない学校に行くことで、我慢する力を育てるんだとか言う人がいるけど、本当にそうなんだろうか。
我慢が必要だと判断できる状況と、それを受け入れられる心の安定があれば、赤ちゃんでも我慢はできるわけで。だからこそ、その心の安定を自分で作れる力こそが、何よりも大切なんじゃないかと最近ではすごく思う。

なので、次男の先生方にも、
「泣いてもいいから、気持ちを早く切り替えられる方法を身に付けさせてほしい」
「泣いてしまうときに、大泣きではなくメソメソで済ませられる方法を身に付けさせてほしい」
と伝えてある。
そして、そのための方法を、先生と私も一緒に試行錯誤を繰り返して、一緒に次男と探し続けている。

それこそが、次男を学校に通わせる意味なのかもしれないと、最近では思う。

また変わるかもしれないけど、今はまぁ、そんなところ。

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