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早めの挫折、長めの下積み

おはようございます🌞
元NBAダンサーの小笠原礼子です。

チアリーディングに夢中だった学生時代。
ピラミッドやバスケットトスなどお互いの信頼関係がないとできない技ばかりなので、気持ちを一つにしみんなで作り上げていくチアの魅力にどハマりしていました。
私のポジションはベース、スポット。
簡単に言うと土台です。
身体も大きく力持ちだったので、地方のそこまでレベルが高くないチームの中では割と頼られる存在だったと自負しています。

「強いチームに入れば、もっとできる!」
と信じ、上京することを決めました。
ほとんど誰にも相談することもなく自分の中で選択肢は一つだけでした。
いつもビビッと来る時は迷いなく、直感のまま動いていました。

社会人で競技チアをするとなると、クラブチームに入るしかありません。
大学生の時に大会で見た東京のデビルスというチーム。
演技がクリーンでダンスもカッコよく、日本でもトップ3に入る実力があり日本代表選手も在籍していました。

今だから言えるのですが、
自分は日本代表になるものだと思い込んでいました。
青森で指導者になるには、それくらいのキャリアがなくては!
なので、このチームこそが私の求めていた環境だったのです。
ここからだ、やっと私の本当の力を発揮できる、、!と希望と野心で溢れていました。

ところが。

東京のレベルは驚くぐらい高く、多少の力持ち程度ではまっっっったく通用しませんでした。全く。
なんなら、タイミング重視だったので私のパワーは邪魔になるくらいでした。
ジャンプやダンスなど個々のスキルも高く、先輩たちが果てしなく遠くにいる気がしました。

嘘だ、こんなはずじゃ、、!

同い年で他にも経験者がいて、ライバルと思っていたら全然及ばず。

嘘だ、こんなに力持ちなのに、、!

大会の度にセレクション(オーディションのようなもの)がありました。
自分のスキルに点数が付き順位が付き、もちろん思うような結果ではなく現実を受け入れられませんでした。

ダンスの項目に至っては、なんとチーム最下位。

笑えませんでした。

日本代表どころか、デビルスというチームの中でAチームに入ることができず。

Bチームの、しかも下位でスタートした東京でのチア生活。

最初から荒れました。
私はチアのためだけに知人もいない東京に出てきたので、そのチアがうまくいかないとなると上京した意味がなく自分がとても惨めでした。

これで青森に帰ったら悔し過ぎる!!
絶対負けない!!!
でも辛い、、でも恥ずかしくて帰れない、、
辛い、、

なかなかAチームに上がれず、後輩に先を越されたこともありました。
同じBチームのメンバーとつるんで不貞腐れて良くない態度を取った時もありました。
Aチームの悪口を言ったことも沢山ありました。
そんな自分が嫌いでした。

「何やってるんだろ」
ふとした時にいつもよぎりました。
ゴタゴタ言っていても、自分が一番どうしなきゃいけないかわかっていました。

現実と向き合い始めました。
諦めずに小さな努力を続けました。

そんな時によく聴いていたのが
清水翔太さんの「HOME」でした。

カッコつけて地元を離れて、
でも夢がなかなか叶わなくて
それでも新しい仲間に出会えて
新しいHOMEがここにある

という内容の通り、
次第に仲間ができました。
一緒に悩んでくれる同期、叱咤激励してくれる(ガチで叱ってくれる)先輩方、
東京にも戦友親友と呼べる人ができました。

土日祝日、寒い日も暑い日も練習に明け暮れ、平日はフルで仕事もしていたので体力的には本当にきつかったです。
でもそれ以上に苦楽を共にしたと言える仲間ができたことは大きかったです。

真夏
真冬


そして長めの下積み数年の末、
みんなのサポートのおかげでやっとやっとAチームに入ることができました。

長かった。

自信過剰な自分はもういなくて、ギリギリ最後の一枠だとしてもみんなに励まされ沢山練習も付き合ってもらいAチームに入れたことが嬉しかったです。

みんなのために。
みんなとだからできる最高のチア!!

やっとチアリーダーに戻れた気がしました。

朝から晩まで練習

強いチームに入ったからといって、それだけで私自身が強くなるわけではありません。(そりゃそうだ)

・環境は大事だけどそれだけでは変わらない。
・諦めない気持ちが大事。
・仲間ができることで夢が叶う

上京を決めた時は、こんな泥臭いチア生活になるとは思ってもいませんでした。
すぐに日本代表になって、青森に帰ってチア普及だ!なんて。

完全に井の中の蛙、大海を知らず。
でも、知らないから飛び込めたんだと思います。
結果オーライ!

最後まで読んでくださりありがとうございます✨

元気勇気笑顔!

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