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6/8開催 ひるねこBOOKS『北欧に学ぶ小さなフェミニストの本』刊行トークイベント・レポート②

前回のnoteで、参加者の方から、イベントで紹介したノルウェーの絵本に、なぜ父親が描かれていないのか? シングル・マザーなのですか? と質問が上がったと書きました。このNOTEでは、その件についてさらに考えていきます。

その場で十分な回答ができなかったのですが、あの後、デンマークの興味深いサイトを見つけました。質問者の方が、北欧では離婚が多いからではないかとおっしゃっていたのですが、確かにその通りで、離婚が多い社会の現状を児童書にも反映するべきだというのが書かれたのが上のサイトです。

デンマーク語のそのサイトでは、Pia Olsenという作家が、スウェーデンは社会規範を批判する児童書が多い一方で(ピッピではお母さんはなくなっていて、お父さんは島に住んでいてたまにしか登場しませんし、アルフォンス・シリーズでは、アルフォンスにお母さんはいません)デンマークの児童書には同性婚をしている家族が描かれている本もあるが、お父さん、お母さん、子ども(達)で成る家族が登場することがほとんどであるとし、そのことを問題視しています。

Pia Olsenは、児童書はお父さん、お母さん、子どもで成る家庭の子どもだけに向けて書かれるべきではないとしています。子ども達に家族のあり方はその家によって少しずつ違うのだという物の見方を示すことが大事だと。

また新しくできたPippiというデンマークの児童書出版社は、女性2人と子どもという家族を描いた児童書を出しています。出版社代表は、現状、家族が出てくるデンマークの児童書では9割方、お父さん、お母さん、子どもという家族を描いているが、あらゆる子どもが児童書に自分自身をシンパシーを覚え、自己を投影できるような環境を整えてあげることが大事であるとしています。ただ例えばお母さんが2人いる家庭、両親が離婚している家庭という設定であっても、必ずしもそのことを絵本の中心テーマに据える必要はない、そのことを当たり前のこととして描くのも大事としています。お母さんが2人いること、片親であることに言及しない、指摘しないことで、それが別に特筆すべきことではない、ごく普通のことなのだと示すことができると。

日本で『おじいちゃんがおばけになったわけ』や『ママ!』などが邦訳されているキム・フォップス・オーカソンは、女性と女性が結婚して家庭を築いたっていいんですよ、ということを示すだけのために描かれた本は退屈だ。面白いことを中心テーマとして描きたい、としています。ユーモアを交えることで、お父さん、お母さん、子どもという構成でない家族も普通なんだとさりげなく示すことができるのだと。

子どもの本を書く時にこうあってほしいという理想の世界を描くのと、こうであるという現実の世界を描くのは、全く異なること。キムさんの場合は自分が世界はこうであると思う現実の世界を描くようにしているのだそうです。

前述のPia Olsenも、「子どもは自分が措かれている現実を受け入れることができる。普通じゃないと疑問視するのはいつも大人です」としています。

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絵本の作り手として意識すべきこと

以下は私見ですが、日本でも作り手が、お父さん、お母さん、子どもで成る家族を描き過ぎていないか意識することが大事なのではないでしょうか? 絵本で常にお父さん、お母さん、子どもで成る家族が描かれていたら、そうでない家の子は、うちは普通じゃないんだ、と思わないでしょうか? 普通じゃなくちゃいけないというメッセージを絵本の作り手は、子ども達に知らず知らずのうちに発信してしまってはいないでしょうか?

キムさんの『ママ!』を訳した時、ママと男の子しか出てきませんでしたが、編集者さんがもしも、お父さんを描き加えようと言い出したら、私は多分反対したと思います。ママしかいない絵本だから、ママと男の子の関係性にスポットを当てられますし、シングル・マザーの家庭の子も、お父さんとお母さんの家庭の子も、お母さんとお母さん、お父さんとお父さんで成る家庭の子も、皆が主人公に自己投影できるのではないでしょうか? 『たからもののあなた』では、お父さんの存在を示すために、スーツが描かれていましたが、それが必要だったのかは、意見が分かれそうです。皆さんはどう思いますか?

離婚をどう描くか?

上の話題に出てきたキムさんの絵本でとても素晴らしい作品がありますのでここに紹介します。

にちようび(Søndag)、Gyldendal社(デンマーク)、キム・フォップス・オーケソン作、エヴァ・エリクソン

(あらすじ)
トーステンには、ヨナスという親友がいました。でもヨナスは、とおい町にひっこしてしまいました。ほかになかよしだったグレガーも、さいきんは、きんじょのおとこのことばかりあそんでいます。そこでトーステンは、ウィリーとあそぶようになりました。でも、ウィリーはときどき、いじわるなことをいいます。きょうもそうでした。原っぱで、トーステンが、おかあ
さんにあかちゃんができたとはなすと、「おとなはこどもがおおきくなって、いうことをきかなくなったり、かわいくなくなると、あかちゃんをうもうとするんだ」といってきたのです。あかちゃんはちいさくて、かわ
いくて、いいにおいがするから。「おまえのとうちゃんとかあちゃんは、もうおまえのことなんか、すきじゃないんだよ」

いえにかえったトーステンはあわてて、へやのかたづけをはじめました。よる、ねるまえ、「へや、きれいにしたんだけど、きづいた?」とおとうさんとおかあさんにたずねると、ふたりはえらいね、とって、いつもどおりやさしくキスをしてくれました。

すいようび、おとうさんとスーパーにいったトーステンは、「おかあさんのこと、すき?」とたずねました。「ああ、だいすきだよ」「でもまえ、けんかしてたじゃないか。あのときも、おかあさんのこと、すきだったの?」「あのときは、おこってたから、すきとはおもっていなかったかもね」「でもまたすきになったの?」「ああ、だいすきにね」

もくようび、むかしだいのおきにいりだった、くまのぬいぐるみのことをおもいだしたトーステンは、おもちゃばこをひっくりかえして、さがしはじめました。トーステンはそのぬいぐるみと、でかけるときもいつもいっしょでした。でもあたらしいおもちゃをかってからは、あまりあそばなくなってしまっていました。

http://gipsygraphics.com/sigojnersugeror/wp-content/uploads/2013/06/gipsygraphics_S%C3%B8ndag2.jpgより

きんようび、おとうさんとおかあさんが、しごとばのなかまとパーティーをすることになったので、おばあちゃんがトーステンのめんどうをみにきました。トーステンが「おとうさんと、おじさんとおばさん、だれがいち
ばんすき?」とたずねると、おばあちゃんは「みんな、おんなじくらいすきよ。こどもがうまれたら、そのぶん、すきってきもちはふえるのよ」とこたえました。「じゃあ、ゴームは?」ときくと、おばあちゃんは「ゴーム……あ
の子は、ほんとうにかわいいこだった」といって、めになみだをうかべました。ゴームは、おとうさんのおとうとで、おとうさんがまだちいさいときに、しんでしまったのです。2人でテレビをみていると、いぬを16とうもかっているおんなのひとがでてきて、「このこたちは、わたしのこどもみ
たいなものなんです」といいました。「あのおばさん、あのいぬのこと、みんなおんなじくらいすきなのかな? かおがかわいいいやつのほうが、やっぱりすきなんじゃない?」というトーステンに、おばあちゃ
んは「かわいいからってすきとはかぎらないでしょ」といいま
した。

そのばん、トーステンは、おとうさんにくまのぬいぐるみをさしだして「ぼくさいきんまでこの子のこと、わすれてたんだ。でもね、すきなきもちが、なくなったったわけじゃないんだよ」といいました。すると、おとうさんはトーステンにおやすみのキスをしてくれました。

http://www.barnebokkritikk.no/wp/wp-content/uploads/2013/09/sondag2.jpgより

どようび、ウィリーはみちにとまっていた車をゆびさして「あの車、おとうさんが、のってたんだ。ぼくもおとなになったら、あの車にのりたいな」といいました。「ウィリーのおとうさんってどこにいるの?」「でていっちゃった。おかあさんのこと、すきじゃなくなったんだってさ」「ウィリーのことは?」「さあね。でも、おとうさん、クリスマスプレゼントに任天
堂DSをくれたんだ……。このあいだ、あたらしいおくさんとのあいだに、あかちゃんがうまれたんだって。おとうさんなんか、だいっきらいだ。あかちゃんのはなしばっかりするんだもん」ウィリーはそういって、うつむいてしまいました。トーステンは「こどもがうまれたら、そのぶん、すき
ってきもちはふえるって、おばあちゃんがいってたよ」といって、なぐさめようとしました。するとウィリーは、「うちのばあちゃん、しんじゃったんだ」といって、なきはじめました。

トーステンがどうしていいのか、わからず、もういちど「こど
もがうまれたら、すきってきもちはふえるんだよ」というと、ウィリーは「そんなの、でまかせさ」といいました。

いえにかえって、かみをあらってもらいながら、トーステンは、おかあさんにききました。「すきじゃなくなったら、そのきもちはどこにきえちゃう
の?」「ただなくなるだけよ」「おかあさんは、おとうさんがすきなの?」「ええ」「たばこのにおいがしても?」「ええ」「けんかすることがあっても」「ええ、だいすきよ」

にちようびのあさ、トーステンはかんがえました。「だれにでもみんなすきなひとがいて、でもとつぜんすきじゃなくなっちゃうこともある。みためがかわいくなくてもかんけいなく、あいてのことをすきなこともあるみたいだ。ずっとむかしにしんでしまったひとを、ずっとおもいつづけるひともいる。おとうさんのことがだいきらいだといいながらも、おとうさんとお
なじくるまにのりたいってひとも。おおげんかすることがあっても、すきなきもちがかわらないことだって……」

http://www.barnebokkritikk.no/mang-slags-kjaerlighet/#.WxyOvor7SUk

やがておとうさんが、「あさごはんができたよ」とよびにきました。トーステンはおとうさんとおかあさんにはさまれ、あさごはんをたべはじめました。にちようびのあさは、いつもこうです。きょうは、くまのぬいぐるみもいっしょですが。それにおかあさんのおなかのなかには、あかちゃんもいます。トーステンはおもいました。「おばあちゃんがいっていたこと、きっとほんとうさ。きっとね」

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キムさんはこんな風に家族の多様性、子どもの感情を描くことができる優れた描き手です。

マジョリティでない家庭環境にある子ども達の存在をなかったことにしないで

子ども達は様々な家庭環境で生き抜かなくてはなりません。絵本の作り手の皆さんは、どうかマイノリティである子ども達の感情をどうか見て見ぬふりをしないでください。子ども達を十分に支える社会制度が整っていない中で、本までもが”一般的でない”家庭環境にある子達の存在に蓋をしてしまったら、子ども達はどこに救いを求めたらよいのでしょう? 社会が子どもを、そして親を支えるべきなのです。普通のレールから外れてしまった親を責めるのではなく、支えるのです。

参考:

イベントでは北海道ネウボラさんのパンフレットを配りました。

残念ながらこの本は未訳です。ご関心ある方はご連絡ください。trylleringen@gmail.com

続きはこちらをご覧下さい。


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