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【読書感想文】それでも、母になる

今朝、旦那の発案で、私のお腹の中にいる子のための「命名式」なるものをした。二人目の子供だけれど、お腹の中にいる間に名前をつけて呼び始めることは我が家のしきたり(?)で、来月にはやろう、来週末にしよう、いよいよ明日、と、旦那はなぜかとても張り切っていた。

「命名式」といってもそんなたいそうなものではなく、旦那と私、2歳の息子という小さな家族でテーブルを囲み、白い用紙に大きく名前を書き、その下にそれぞれ署名をして壁に貼る、というもので所要時間は約3分。だけどそんな小さな儀式になぜか家族みんな気が引き締まり、それまで「あかちゃん」とか「お〜い」とかなんとなく呼んでいたお腹の中の子を「○○ちゃん」と自信を持って呼べるようになるのだった。

どんな子が産まれてくるのかはわからない(長い妊娠期間、これから何があるかもわからない)けれど、わたしたち家族の物語が新たなチャプターを迎えることは間違いない。たった一人で自分の家族の元を離れて大阪から上京してきたはずなのに、旦那と出会い、付き合って、同棲して、結婚して、妊娠して、出産して… そんなあれこれを経て、私には自分が生まれ育った家族とはまた少し違う、本当の意味で自分が選んで築いた「わたしの家族」ができたのだなあと感じたりした。

そしてそんな夜に、家族が寝静まってからひとりでこちらの本を熟読した。これがもう、じんわり余韻に浸りたくなるような一冊だった。

大好きで尊敬する編集者の友人であり、同じタイミングで母親になったこともあって、いまや週末に子供を連れてあちこち遊びに行くママ仲間となった 徳ちゃん による初の単著。

もともとはハフィントンポストに寄稿された徳ちゃんの記事(私は、自然に生理も排卵もありません。それでも今、妊娠5ヶ月です)がきっかけで執筆が決まったらしいのだけど、この本で描かれている徳ちゃん自身のエピソードはごく一部で、メインとなっているのは彼女の身近にいる様々な家族の物語。16歳で妊娠して母になった家族、生まれつき子宮がなく、産まない人生を選んだ家族、夫から腎臓移植を受けた家族、女性から男性への性転換を経て生まれた家族、養子縁組をした家族、養子縁組によって家族となった娘、里親として社会で子供を育てる家族…。本の中で描かれる家族のかたちは文字どおり多種多様で、「我が家」から飛び出してお隣さんの家のドアをトントンとノックすればそこにはまったく違う景色があるという事実に改めて気づかされた。

それぞれの事情も価値観も違う中で、「それは家族として正しい/正しくない」と第三者がジャッジできるようなことは何ひとつない。だからこそ、この本の最後の締めくくりでもある ”「正しい家族」ではなく、「わたしの家族」” という言葉はじーんと胸に響いた。

そしてもう一つ、強く心が揺さぶられたのは、里親として子供たちを育てる綾子さんのエピソードを紹介する章で綴られた言葉。

それでもやっぱり「家庭」という場所や「家族」という存在が、子どもだけでなく、誰にとっても必要だと思う。血のつながりはなくたって、なにかあった時に思い出せる「誰か」とのつながりは、毎日を生きる力になるはずだから。

血の繋がりや法的な手続き、子どもの有無にはまったく関係なく、自分が「家族」と呼べる存在の心強さ。それは日々の中で度々話題になる「仕事、キャリア」だとか「働き方」だとかそういうテクニック的なものよりもずっと根幹で、私たちの人生を形作っているものなのだと思えた。

どんな選択にも意味があり、そしてもちろん失敗もある。この本の中に登場している人たちはみんな徳ちゃんの身近な人たちなのであり、ものすごい影響力を持つ有名人だとかそういうわけではないのだけれど、皆それぞれに事情を抱えながらより良く生きようと、現在進行系で理想に向かっている姿がとても印象的だった。それこそが「わたしの家族」を築くプロセスなんだと。そしてそんな隣人の家族のありかたを、こんなにもリアルに包み隠さず覗かせてくれるこの本の素晴らしさ。

最初から「こういう家族を目指すぞ!」と目標を持って築くようなケースはごく稀で、誰もが悩んだり壁にぶつかったりしながらようやく「あ、私の家族はこれでいいんだ」と自分たちが認められるような形に、何年もかけて辿り着いているように見える。この本を読んで「自分だけじゃない」と共感して安心する人もいるだろうし、「こういう家族って理想だな」と思わせてくれる家族の形もあるかもしれない。私の場合は「目指すのではなく、たどり着く」ということを少し意識した。

徳ちゃんの記事は、ここからも読めます!

丁寧な取材で描かれる、様々な家族のかたち。
著者が友人ということを差し引いても、素晴らしい一冊なので(言うまでもなく!)、皆さま書店などで見かけられたらぜひぜひ。

今朝、我が家でわきあいあいと盛り上がった「命名式」から、一年後、五年後、十年後。そこにどんな家族の形があったとしても「これがわたしの家族」だと、自然に胸を張って言えるような自分でいたいな。

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