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「イメージの本」

全てのイメージは撮られてしまったのではないか。または、観られてしまったのではないか。
全てのテクストは書かれてしまったのではないか。または、読まれてしまったのではないか。
という強迫観念のようなものに苛まれ続けるジャン=リュック・ゴダールが四年振りに撮った?新作は、とにかくイメージの氾濫としか呼びようのない現象として(認識というよりは現象として)体感された身体的な営みだった。
テクストを痰が絡んだしゃがれ声で淡々と読み上げるゴダールの悲しい声。
テクストが人間をここまで押し上げたのなら、イメージにもそれができるはずだと信じ続けた映画作家の勇ましい声。
テクストが限界を迎えた今、イメージはテクストというくびきから解放されて自由になるべきだ。
カットからカットへの繋がりを黒画面によって拒否する。それでもイメージというのは並べただけで意味を成してしまうから、ゴダールはぶつ切りの音楽を流しナレーションで言葉を氾濫させる。
物語はテクストだ。
純粋なイメージは物語に従属しない。イメージが連なった時そこに意味が発生した瞬間、イメージはテクストに敗北しているのだ。
アーカイヴからの引用は私たちに過去を顧みさせるのではなく、意味を放棄させる。
意味が放棄された空間そのものが未来だ。
ゴダールがこの映画の最後むせ返りながら叫んだ「希望」そのものだ。
砂浜の映像、踊る人々、嘘つきたちのイメージ。今まで撮られてきた美しいイメージの数々。
それらのイメージが映画作家の頭の中に立ち上がった瞬間それ自体に何の意味もなかったはずだ。
ゴダールはアーカイヴを引用し、ぶつ切りの状態でスクリーンに投げ出すことで、イメージの原初的な体験を再現しているのだ。
だから、この映画に出てくるイメージの数々は過度に色味が強調されていたり、また逆に色味が抜けていたりする。
まるで私たちが寝ている時に見る夢の中のイメージのように。
たとえ何ひとつ望み通りにならなくても/希望は生き続ける。
ゴダールにとって希望はテクストから解放されたイメージだ。
人類が慣れ親しんだテクストから本当の意味で解放され、自由になったイメージだ。
私たちはテクストを放棄して、イメージだけで紡がれた本を読む勇気があるか。
覚悟があるか。
ゴダールが「希望は生き続ける」と言ってくれてるのなら頑張ってみるか。