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「浮草」

旅回りの一座が「そこにいることを強いる共同体」として描かれており、ということはやっぱりこの映画も家族の映画なのだ。
旅回りの一座という疑似家族の緩やかな解体。
緩やかなつながりの再構築。
そこからいなくなろうとする人中村鴈治郎。
そこからいなくなるということが小津映画では家族という共同体の解体とイコールなのだ。
そして、どこに行こうとも必ずそこに帰ってくるという約束がつながりだ。
そこからいなくなる人中村鴈治郎。
隔たっているのは、常に一緒にいる人。
この映画では京マチ子。
彼女のしかめっ面が爆発するあの、豪雨の隔たりを挟んでの罵り合い。
具体的な言葉を一切吐かない中村鴈治郎と、残酷なまでに具体的な言葉で罵倒し続ける京マチ子。
彼らの隔たりは一生埋まらないのだということをあの暴力的なまでに激しい豪雨が示唆する。
いなくなるということ。
そこからいなくなり続ける人々、旅回りの一座。
でも、回って帰ってくるということは、そこに居続けるということでもある。
「このままでいいのよ」
「このまま」はいなくなり続けるということだ。
不在を探し続ける小津映画の決意表明。
社会性がない
演技が大げさ
古い
何言うてけつかるねん。
小津安二郎はいなくなっても必ずそこに帰ってくる。