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「ファーストマン」

宇宙という未知なるものは、映画においては自己に対する他者と等号で結ばれてきた。
例えば、この映画では、ニール・アームストロングにとって宇宙イコール家族であるし妻であるし、死んでいった友であるしアレンであった。

そして月は死のメタファーであった。
彼が宇宙へ行く時、又は向かっている途中考えるのは決まって、死んだ娘のことだ。死んでいった友のことだ。
月という究極の楽園は、彼にとって娘との再会の場所なのだ。
宇宙飛び立つ極限状態の旅路の合間に唐突に挟まれる娘との戯れのイメージ。
戯れは死の気配を帯びる。
天国というものがあるとすれば、彼は月だ!と思ったのだろう。
月に行けば、彼女に会える。
黒電話を叩きつける彼を見る妻。
「戻ってこれないかもしれないんでしょ?」と問いかける息子の眼差し。
隔たりのある握手。
ガラス越しのキス。
月に"行ってしまった"人としてのニール・アームストロング。
行ってしまった人と行ってない人との心の距離は月よりも遠い。

何が彼らを駆り立てるのか。
偉大な国アメリカの崇高なナショナリズムか。
それとも、政治的な思惑か。
いや、彼らはそれを言い訳にしているだけだ。
未知なるものへの興味は私たちを駆り立てる。
それは、他者を渇望せずにいられないあの気持ちと似ている。
踏み越えた先に何があろうと私たちは、そこに存在の痕跡を残したがる。
生きたという証。
前人未到の地に自分の足跡を。
前人未到の他者。
誰も踏み越えたことのないあいつの月面。