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「トゥルークライム」

物語という意味を映画に付与されることを、極端なまでに嫌がるのがクリントイーストウッドなのだと思う。
一見、黒人差別を取り上げた社会派映画のように見えるが、そのようにこの映画に意味を付与した瞬間にこの映画は映画ではなくなってしまう。
主人公は物語という意味から逃れるように、自分の「鼻」だけを頼りに行動していく。
彼の「鼻」が突き止めた「ホントウ」のことは一切の物語を拒否している。
差別される哀れな黒人と差別する偉そうな白人という図式を放棄している。
善と悪なんて関係ない。頼りになるのは俺の鼻だけだ。とイーストウッドが劇中で言うように、あらゆる図式がイーストウッドの映画の前では無意味になる。
物語性を非物語性を孕んだ物語で食い尽くすような映画。
その極北に位置する映画が昨年公開された「15時17分、パリ行き」なのだと思う。
非物語性を孕んだ物語=運命なのだ。
物語から解放してくれる、全く偶然としか思えない運命と呼ぶしかないものを表現できるのは映画しかない。
その物語という意味性を象徴する「死のカーブ」
カーブ自体に意味はないのに、曲がりづらくて何人か死んだということだけで、人間はそこに意味を付与してしまう。
イーストウッドはその意味性から逃れるようにあのカーチェイスで「死のカーブ」から離脱する。
その瞬間、死刑という運命は回避されるのだ。
イーストウッドは王道を走りながら、王道から離脱する。
運命は運命でしかないということ。
映画は所詮映画でしかないということ。