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「岬の兄妹」

手持ち花火をやったことある人なら、誰でも思ったことがある「線香花火ずーっと点いててくれないかなぁ」というあの儚い気持ちを映画でやってくれてるなと思った。
歩くシーンが印象的な映画で、その歩くという映画的な運動そのものが、直前のシーンの不幸を反転させてしまう。
または、直前の幸せを引き延ばしてしまう。

北野武の「その男凶暴につき」における主人公が延々と歩くシーンは、演出的効果が全くないという点で画期的で、だからこそ「その男凶暴につき」は日本映画においてエポックメーキングな作品だったのだが、この映画ではそれと全く逆の現象が起きていて、直前のシーンを反転させたり、引き延ばしてしまうという効果を歩くという運動そのものが担ってしまっている。
直前の線香花火のように刹那的な幸せを引き延ばそうとするかのように彼らは歩くのだ。

不在を探す身振りとしての歩くという行為が、彼らの悲痛すぎる人生を象徴している。
そう、彼らが歩くときは決まって何かを探すときなのだ。
一万円で妹を買ってくれるおっさんを探すとき。
プリンを買うコンビニを探すとき。
妹を探す兄貴は、足を引きずっている。
欠落をそのまま惨めに引きずりながら、それでも歩いて何かを探すしかない彼らの悲しさと滑稽さ。
探しているのかお金か?それとも幸せか?
おかあちゃん。

中盤の妹の売春を圧縮した流れるようなモンタージュ。
あのモンタージュの最後に「あっ、見つけた」と感じる不思議な感覚こそ映画的体験だと思った。
陳腐な言葉をあえて使うが「愛」としか呼びようのないものを、見つけた瞬間。
小人!!最後電話かけてきたのお前だろ!
そうであってくれ
とあのモンタージュを見せられた私たちは願わずにはいられない。

「地方セックス見聞録」とでも言うかのようにセックス描写満載の映画なのに、それなのに、どんな映画よりも生きることを、死ぬことを、性を、泥沼の中で爽やかに描いている。それは喜劇的な演出がなせる技なのだとは思うが、性の本質がもともと滑稽なものという側面も作用しているように思う。
年寄りの性生活なんて笑えねーと普段考えていたのに、この映画では爆笑してしまうし、何か身体に心に欠落を抱えたもの同士のセックスがこんなにも美しいものだとも思わなかった。

線香花火のように儚い笑いがそこかしこに散りばめられていて、笑った後にすぐあっ、けどこれ笑えねぇよなぁみたいな。
この映画を観ていて困るのは、笑えない売春シーンの後に、取り立てから逃れるために窓ガラスに貼られた段ボールをひっぺがして映画史上一番美しくて強烈な太陽光が真っ暗な部屋に一気に差し込んでくるシーンを持ってくるからだ。
幸せなのか不幸せなのかこっちまでわからなくなってきたよ全く。

あんまレビューで、ぜひ見てくださいとかいうの好きじゃないし、最後締めの文章をそういうのにするとなんか読んでもらってる人に媚びてるようで嫌だけど、言わざるを得ないから言う。
ぜってーみろ!