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「ギルティ」

私たちは、複数の人々とともに席に座って、スクリーンを観るわけだが、その時私たちは不思議なことに純粋に孤独な個人となる。
何かを観るという行為そのものが、個人的な体験であるからだ。
同時に、何かを聴くという行為も個人的な体験だ。
どんなに集って何かを観たとしても、何かを聴いたとしても、その映画が語りかけているのは私に向かってであるし、その音が語りかけているのは私に向かってなのだ。
そんなことを劇場の真っ暗闇で感じた時、観いている、聴いているという能動的な主体者としてタカをくくっていた私たちに価値観の転換が訪れる。
私たちは観ていたのではない、観られていたのだ。
私たちは聴いていたのではない、聴かれていたのだ。

主人公の彼が直面した価値観の転換は、映画を観ている時に不意に訪れるスクリーンに映し出された事象に、この世の価値という価値が何もかもひっくり返されてしまった時のあの快感の感覚に似ている。

贖罪をテーマとする映画が多いのは、人間が「私は罪人である」という本質的な人間観をスクリーンに覗き見たいからだ。
まさにこの映画はそういう映画で、物語やサスペンスの筋を推理していると思い込んでいた主人公が、その自分でつくりだしていた「物語」という価値観を覆されることによって、自己に言及せざるを得なくなるという構造を孕んでいる。
映画は、気づきたくないことを気づくことを鑑賞者に強いる。

暴力映画を観ていると「暴力的なものを描く意味がわからない。そんなこと知らない方が良い。」とよく言われるが、その通りだと思う。
知らなくていいことというのは世の中にあって、映画は野次馬的にゴシップ的にそれを扱ってきたし、これからも扱っていくだろう。
そういう奴には、こう言い返すしかない。
「みてぇんだよ」と。
映画を観るという行為そのものが罪深いのだ。
それでも俺は映画を観るよ。
映画で、なんかきったねぇものを顔をしかめながら観るよ。

原罪のようなもの。原罪をスクリーンに映し出してそれを観ることで狼狽える自分を観たい。
スクリーンがほとんど鏡のようになってしまうあの感覚。
スクリーンに写ってるのは俺の顔。
今日のスクリーンには、何もかも自分の都合の良いように決めつける俺のしかめっ面がでかでかと映されていて、恥ずかしかった。