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「Roma」

発狂した尋常でない映像の連続。
そこでは、暴力と死が後景に追いやられ、鉄砲や軍隊のラッパの音が彼らの生活のBGMのような役割を演じ続けている。
暴力が後景に追いやられている間、私たち鑑賞者はそれを心地よくすら感じてしまっている。
私たちがその尋常ではない事態に気付かされるのは、主人公が家具屋に行って、暴動に巻き込まれ堕胎するまでの一連のシークエンスを見た時だ。

暴力が境界を乗り越えてくる。
それまで後景に追いやられていた死が、群衆となって前景にせり上がってくる。
そのあと繰り返される暴力と死に関するカットの数々。
あの一連のシークエンスをきっかけにして、前景に捉えられていた生活は後景に退き、後景に追いやられていた死が前景に捉えられる。
そして、前景にせり上がってきた死は、主人公が娘と息子を助ける海辺でのあの長回しのシークエンスによって、海に還され、主人公の手によって掬い上げられるのだ。

死を極限まで突き詰めるとすべての生命の源である海に還らざるを得ない。
石原慎太郎や三島由紀夫、そして北野武が死のイメージを海に求めたようにこの映画でもまた、死は生命の源である広大な海原のイメージに還るのだ。

それならなぜ彼らは助けられたあと抱き合ったのか。
それは主人公が死や暴力を海から文字通り掬い上げたからだ。
「生まれて来なければ良いと思ってた」
そんな忌むべき愚かな考えを抱いてしまった自分を、海から掬い上げたからだ。
それは、彼らの再生であるし、崩壊の気配をしっかりと自覚した彼らの力強い足音だ。

長回しは見るものを発狂させる。
この世では、何か同時多発的に起きてしまっているのだということを感じさせる。
何かが乗り越えてくる瞬間。
そこを跨ぐ時、境界を侵略してくる暴力。
砂浜と波打際の境界を何の迷いもなく乗り越えていく主人公の姿は、侵略してきた暴力や死を退け、彼女が娘と息子を掬い上げたように、死と暴力から生を掬い上げるだろう。
あの力強い足取りそのものが生命だと思った。
あの互いが互いを包み込む抱擁そのものが生命だと思った。
ただ私たちは長回しを傍観するしかないということ。
傍観が映画だということ。
傍観するしかないという諦め。
傍観がそのまま生命だということ。