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王様と盗賊と姫君とフェミニズムとポリコレと私

昨日、渋谷のヒカリエにて「王様と私」を観劇しました。そのとき思ったことと実写版アラジンを見たときの感想について書いているので、未鑑賞かつネタバレを避けたい方は見ないことをお勧めします。
また、王様と私については今回の劇しか見たことがないので、原作やこれまでに上映されてきた映画や劇とは演出や流れが異なる可能性があり、かつ相違点については調べずに記載していることをご了承ください。


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「王様と私」は、1860年代のシャム(現在のタイ)を舞台にした話で、イギリス出身の未亡人の女性アンナが、シャム王の子どもたちの家庭教師として派遣されるのだけど、王様とアンナが対立しながらも知らず知らずのうちに惹かれあっていく、というのがあらすじである。
その王様がかなり自己中心的かつ男装女卑の激しい人であり、他人には約束を守ることを強く求めるくせに自分はアンナとの約束をまるで守らなかったり、自分には妻が何人もいるくせに妻には自分だけを愛するように強いたりしている。一方で、英国から来たアンナには近代的な価値観があるため、契約を守るように終始王様に強く要求していたし、男尊女卑的な考え方にはいつも憤りを見せていた。

こんな王様でも憎めないところがあり、だからこそアンナは王様と惹かれあっていったのだと思う。当時シャムの近隣諸国は次々とヨーロッパの国々と同盟を結んだり支配されたりしていて、王様は激動する国際関係の中で自国をどのように統治すべきかということに終始悩んでいた。最高権力者であり、かつ実際に権力を振りかざしまくる存在でありながらも、簡単に決断できない難問に日々悩み続け、それでいて決断を迫られ、実際に決断をしても最善の選択だったのであろうかと再び悩み続ける様子には自分自身も思うところがたくさんあり、そうなんだよー大人になって多少知識が増えたとしても何でもは知らないし決断だっていつも悩むしはっきり決められることなんて一つもないんだよ〜〜〜と心の中でそれなーーーと言いまくっていた。
しかし、だからといって王様の傍若無人ぶりを見ていると惹かれるところは個人的にはゼロだったし、悩んでるからって勝手な振る舞いが許されるとは思うなよとは終始思っていた。

私の違和感が特に強まったのは物語の終盤であり、隣国ビルマから貢物として献上された妻の一人が、愛する人と共にシャムから逃げようとしたものの、二人とも捕らえられ、殺されてしまうというシーンがある。このシーンからが割と急展開であり、それまでに一緒に困難を乗り越え良い雰囲気になっていたアンナから王様が「野蛮人!」と罵られ逆ギレするのだが(その前に英国から特使が訪れるシーンがあり、野蛮人であるとのイメージを払拭するために西洋式のもてなしをして満足してもらうという場面があったため、野蛮人との罵りはかなり応えたものと思う)、アンナがシャムを離れることになると急に王様の容態が悪くなり、アンナが出港前に急遽会いにいくと少し会話をした後に本当に亡くなってしまうのである。物語上、王様の体調が悪いという描写は少なくとも私が覚えている限りでは存在せず、いきなり亡くなってしまったので、自分の印象としては、「王様、逃げ切ったな……」というのが正直な感想である。結局王様は悩んだりアンナから様々な指摘を受けたりしながらも、勝手な振る舞いについて明確に謝罪したり反省したりすることまではなく死んでしまうのである。

このような流れを見て、私は正直呆気にとられてしまった。実話ならまだしもフィクションなのであれば、何かしらの救いがあって然るべきだったと思ってしまった。一応、王様が亡くなる直前で、長男が即位するにあたり、王様以外の人間が王様に向かってカエルのように這いつくばって敬意を見せることをやめさせるように宣言する場面はあるのだが、男尊女卑的な考えや一夫多妻制をやめることまでは宣言しない。それを思うと、少し残念だなと思ってしまったのである。

しかし、改めて思うと、果たしてこの作品の中で真の男女平等を目指す必要はあったのだろうか。不勉強であるため当時のシャムのことは全然知らないけれど、当時のシャムの王様に、いくら先進国であるとはいえはるか遠くの国から来た部外者とも言えるような人間から男女平等を説かれたところで、果たしてそれをすぐに受け入れることはできるのだろうか。そこを無視して平等を意識した結末を求めることこそ、私があまり好まないいきすぎたポリティカルコレクトネスではないだろうか、と。
最近、アラジンを見たときも楽しんではいたものの少し違和感を覚えてしまったことがあり、それこそがまさにフェミニズム的な考えやポリコレであった。姫であるジャスミンが女があるがゆえに国王になることができず、政治には関われない立場であったものの、女だけど立ち上がって声を上げようとする場面が印象的に描かれていた。あまり覚えてないけれどアニメ映画ではそこまで女性の権利について描かれていた印象はなかったし、美女と野獣の実写版でも割と女性の強さをアニメ映画よりも印象的に描いていたことがあって、最近のディズニー映画は息苦しいなあ…と思ってしまったことがあった。
私自身も女であるし、女だから我慢しなければいけないという考えは嫌いだし、男女平等でなければならないと思うけれど(だからこそ女性を優遇したいときは男性にも同じ権利を与えるべきだと思うけど。労働時間とかね)、フィクションでまでメッセージを強く掲げると疲れてしまうからどうにかならないのかな、と思っていた。

それなのに、結局自分がフェミニズム的・ポリコレ的な結論を求めてしまったのである。
おそらく、自分の違和感の違いは、アラジンについてはより古い作品を見たことがあるものの王様と私については初見であることなのだと思う、アラジンについてはある程度あらすじを把握していて、その通りに話が進むことを期待していたから、急に思いにもよらないフェミニズムを振りかざしられ、鼻を折られた気分になったのだと思う。一方、王様と私については元の話を知らないから、どうしても現代的な価値観のもとで見てしまい、これにそぐわない場面が出てくると、誰かが登場人物をいなして「正しい」方向に導いてしまうことを期待してしまったのであろう。それを思うと、本作が初鑑賞になるかもしれないし、柔軟で価値観がいくらでも変わりうる子ども達に向かってアラジンのジャスミンや美女と野獣のベルを強い女性として描くことも意味があるのかもしれない。もちろん、私よりも素直に物語を受け止められる大人もいくらでもいるし、男尊女卑を貫く大人だっているわけだから、価値観を発信していくことは常に大事なはずなんだけどね。

思うがままに書き続けてしまったので結局自分が何を言いたいのか分からなくなってしまった。フェミニズムとポリコレという仰々しいテーマを扱った割に、何かメッセージを伝えたかったというよりただ思ったことを日記の延長として書き綴っただけなのである。私は基本的に自分のことしか考えていないので、ブログの締めにはいつも困ってしまう。

そして、こんなにモヤモヤばかりを書き出してしまったけど、王様と私もアラジンも非常に楽しみました。どちらもコミカルでとっつきやすかった。王様と私は渡辺謙さんが王様役だったけどやっぱり迫力がすごい。ケリー・オハラさんの歌声も素敵。ミュージカルもっともっと見たいな。生のミュージカルはすごく良いからもっと色んな作品を見にいきたい。

#日記 #エッセイ #王様と私 #アラジン #ミュージカル #フェミニズム #ポリコレ

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