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毛利元就〜その後〜

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。約1ヶ月ぶりの投稿になります。年末年始から、ずっとバタバタしており、ついつい投稿を遅らせてしまいました。

今回にて毛利元就編の最終話にいたします。読んでいただき、ありがとうございました。

1555年、元就が59歳の時に厳島の戦いがありました。その勢いで、1557年に大内家を滅ぼし、一気に西日本を代表する大大名に駆け上がります。大内家の領地を手に入れた元就は、1566年70歳の時に遂に尼子家も滅ぼします。若い時から悩まされ続けてきた両家を倒し、西日本最大の大名になりました。

元就の力強さ

元就は、1571年6月14日、75歳で亡くなります。長男の隆元は、1563年に既に亡くなっていました。そのため、孫の輝元が後継者となり、次男の吉川元春と三男の小早川隆景が補佐する体制(毛利両川体制)を継続していきます。元就は、「決して天下を競望してはならない」(吉川家文書)との遺言を残したとようです。弱小勢力を大勢力へと導いた元就ですが、成長ではなく、守成を命じています。大内・尼子という二大勢力も滅亡してしまったこと、数々の諸勢力を滅ぼした元就だからこそ、守ることの困難さを強く感じていたのかもしれません。

また、元就は当時としても長寿でした。父も兄も酒により早死にしたため、酒を嗜まなかったようです。この辺りも元就の意思の強さが感じられます(なかなか真似できません)。

自分が得た教訓や課題を活かし、着実に活かし、実行していく意志の強さや堅実な力が元就の強みではないかと考えます。
厳島の戦いが59歳、尼子家を滅ぼしたのが70歳です。現代の私たちの感覚でも遅咲きの英雄といった印象になります。日々の努力により、人生の転機はいつ訪れるかわからない、ということを気づかせてくれます。

その後の毛利家

元就死後の毛利家には、過去最大の難敵が登場します。織田信長です。ここから先は、ご存知の方も多いと思います。毛利家は、信長配下の羽柴秀吉に追い詰められて行きます。しかし、本能寺の変が発生し、救われることになります。そして、羽柴秀吉に協調しながら、所領を維持し、豊臣政権下では、五大老として、120万石の有力大名の一人となりました。しかし、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の術中にはまり、防長二カ国、120万石から37万石の減封となってしまいました。

しかし、この時の失敗と悔しさは、引き継がれていきます。新田開発や藩政改革により幕末には「雄藩」へと成長していきました。元就のように力強く課題を解決し、そして、成長していった毛利家は、遂に倒幕を成し遂げ、鎌倉時代以来の武家政治を終わらせ、近代国家としての日本誕生を導いたのでした。

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」, 株式会社新紀元社, 2010年9月
本郷 和人, 「戦国武将の解剖図鑑」, 株式会社エクスナレッジ, 2015年11月
童門 冬二,「毛利元就ー鬼神をも欺く知謀を持った中国の覇者」,株式会社PHP研究所,2009年3月

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