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裸のラリーズ『77 LIVE』(1991)

アルバム情報

アーティスト: 裸のラリーズ
リリース日: 1991/8/15
レーベル: Rivista Inc.(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は75位でした。

メンバーの感想

The End End

 刺激的な音がずっと鳴っているのだけど、不思議と穏やかな気持ちになる。シガーロスを聴いている時みたいな。もしかしたら、録音の質がお世辞にも高くはないことで、ノイズとはいえ角の取れた優しい音になっているからかもしれない。真空管がぶっ壊れたような、ギュウと押さえつけられたようなファズの金切り声がたまらん。エコーへの過大入力、あるいはエコーからコンソールへの過大入力によるビリビリした歪みがたまらん。本当に甘いノイズという言葉がよく似合う。
 ループミュージックのそれとは少し性質を異にするけど、これにも反復の快楽/美学が詰め込まれている。ライブ盤とは思えないほど、キリッとした密室的なサウンドなのも新鮮だった。

桜子

 裸のラリーズは、淀号事件で指名手配されてる人がいるという認識がありました。
 音楽を聴くのは初めてです。
 白い画用紙に水性の絵の具を垂らして、ストローでフーと吹いて模様を作るみたいな感じで、音響に制御性が感じられなくて気持ちよかった。

俊介

 闇堕ちした早川義夫やんけ思ったのは置いといて(歌詞にすごい要素あると思います。)、中学生のころなんとなく聴いた時はめちゃくちゃ暴力的でしっちゃかめっちゃかなノイズのイメージだったんだけど、もう1回きくとドゥーワップだったりボップス的な要素が見え隠れしてるのがみえて、轟音にその小さいアソビまでマスキングされてたんだなっと思った。
 sd laikaっていうエクスペリメンタルグライム周辺のアーティストを聴く機会が最近あって、そこからノイズミュージックに対してコペ転が起こった実感がある。
 昔に比べて好意的にラリーズを受け取れるようになったのもそこを経由したおかげかなって気がしてるんでsd laikaにもラリーズにも感謝。

湘南ギャル

 これまで聴いたことのある音楽の中で、輪郭が一番つかめない。何回聞き直しても、ずっと初聴のような馴染めなさがある。ノイズばっかだし。それでも、不思議なことに冷たさを感じない。お風呂でぬるま湯につかりながら、うとうと夢を見ているような心地よさがある。それだと死んじゃうか。でも、この世界とは繋がっていない場所に在る物のようにも感じるから、あながち間違ってはないかもしれない。

しろみけさん

 前から思っていたのだが、水谷孝と西野カナの詞はよく似ている。モチーフから君/あなた/お前との距離の取り方に至るまで、構造はそっくりだ。
 それでも究極のインディーズというか、マスタリング/ミックスも含めて(悪いことは言わないから、イヤホンでは聞かないほうがいい。耳に外傷を追うレベルのノイズが普通に出ている笑)、外部性がない。別に聞いてる人間のことなんかどうでもいいって、本気で思ってるのかと、そう錯覚してしまう。
 それでも、なお人前で演奏してしまい、あまつさえ多くのリスナーを産んでしまうのは、端緒に現れるちゃちな普遍性が滲んでいるからではないのか。そして、それが水谷の歌詞なのではないか。これが他のノイズミュージックとラリーズの違いで、いくらボーカルの歌唱スキルが秀でていなくとも、このバンドはインストバンドであってはいけない。実はありきたりな恋のことを歌ってる、ノイズがうるさすぎて聞こえないだけだ。嘘じゃない、耳を澄ませて聞いてほしい。耳を痛めない程度に。

 今所属している軽音楽サークルに入ったとき、1番最初に誘われたコピーバンドは裸のラリーズのコピーバンドだった。コピーする上で驚いたのは「何もわからない」ことで、幾つかのライブ映像を見ても曲名と演奏している曲が違うし、メンバーの経歴も具体的な活動歴もいまいち明瞭とした情報が無かった。何より演奏の抽象度の高さは衝撃で、音が割れてるのか、そもそもノイズを出してるだけなのか、微かに聞こえる声は歌声なのか、など、ただそこに強い空気の震えがあることしか確かな物がない。ただ、昨年聴くことが出来るようになったこの「77 LIVE」は裸のラリーズというバンドの抽象度の高さはそのままに、音の分離感やノイズのきめ細かさ、ダブに通じるベースのボトムの強さなどをはっきり味わえるようにチューニングされている。確かに裸のラリーズというバンドがいたのだなとはっきり認識出来るような作品だ。

みせざき

 音割れがひどい、、ノイズがひどい、、でもそれすらに満足を覚えてしまうほどこの作品の魅力の一部に感じてしまいました。良い意味で全く制御が効いていないアルバムだと思いました。

和田醉象

 全くもって、世の中のライブ盤の中でも指折りの作品!マスターピースと言っても差し支えないだろう。今回の企画で聞いている中でもダントツで悪い音質で、もはやブートレグといったほうが差し支えない音像だが、それがこの作品の評価、アーティストの神話性を未だに高め続けている。
 ラリーズが自身のバンドのブランドや神話性をここまで高めたのは「30年以上にも渡るキャリアの中でほとんど作品を残していない」「その作品も限定的な発売で、手に入れようと思っても手に入るものではない」「たまにライブをやって客の前に現れたが、インタビュー等にはほとんど応じない」等等、徹底的に客との距離を取ってきたから、ということもある。要するにラリーズのことを知っていても、その曲や音楽性、メンバーの人となりは知らないということがまず当然であり、個人が個人的にラリーズの解釈妄想を高め続けるので、裸のラリーズというアーティストはえてして個人的神、アイドル、偶像にまで持ち上げられがちだ(メンバーがどこまで意図したことなのかは分からないが)。主要メンバーの多くが鬼籍に入り、数多くの事実が葬られつつあることもこのことに拍車をかけているだろう。
 これはインターネットが発達してラリーズ作品に触れることが容易になった我々にとっても全く同じことである。作品を手に取ることは再発などでできるようになってももう本人らを見ることは敵わない。絶対に今から作品に触れる人たちはこの「色眼鏡」をかけた状態で音像に向かう必要がある。(そこそこラリーズのブートも集め、関連情報に触れている私自身も当然例外ではない)
 ラリーズのレビューを書くならばこれは絶対に言及せねばらならない事柄なので一旦触れる。
 だがその「色眼鏡」はとんでもない脚色をしてくれる。まるで現場の様子がうかがいしれないノイズの山の向こうに我々は水谷孝という神を見る。
 首謀者水谷孝本人がプロデュースしたこのアルバムは90年頃、本人所持の77年のライブのアナログテープをスタジオに持ち込むところから始まった。
 そもそもの録音の質が粗悪であり、作品に直接関係ないノイズが大量に含まれていたことは想像に難くないが、それを取り除いた先には、妙に儀式めいた、凄まじい演奏が残った。音像がクリアでないから「手が届かない」という気持ちにこちらはさせられる。まるで密教の、今は途絶えてしまった儀式に参加されている気持ちにさせられる。ドラムやベースの音をギターやボーカルが塗り替え、互いにノイズを応酬しながら犯し続ける。こんな類の音像を狙って作り上げる事はまずないだろう。他に例がない。本人にとっても偶然の産物だったかもしれない。
 77年に発表されたということがタイトルからもわかるので、他のアーティスト、シーンから断絶した存在ということも思ってしまうのかもしれない。だが、作品の内容的には基本的なフレーズの応酬、反復だ。それにもはや何を弾いているのか、歌っているのかわからないくらい過大にエコーがかったギターとボーカルが乗る。もはや暴力的と言えるほどのThe Last Oneのリフから逃れることはできない。(夜、暗殺者の夜は前年の76年が初演なのでまだアレンジが固まり切っていない感じがあって)こんなものが計算されてできたなんて到底思えないし信じたい。だから美しい。

渡田

 ライブ音源の上、ギターのエフェクターの掛かり方は激しく、曲が展開していくともはや何の楽器から出ているか分からないような駆動音になっていく。ボーカルも無軌道で、時によってはほとんど聞き取れないサイレンのようになって、物々しい爆音が何重にも響いてくる。ほとんど無秩序状態の演奏のはずなのだけれど、意外にもしっかり1時間半通しで聴くことができた。
 比較的規則性のあるベースのラインがあったお陰で、それぞれの音をつなげて聴くことができ、無秩序な音々を曲として聴くことができたからだと思う。
 もちろんベースの音も他の音に同じく、楽器の音か機械のエンジン音か判断できないような爆音なのだけれど、短いながらも凝られたフレーズを持っていて、それが無機質に何度も繰り返されることで、不気味ながらも落ち着いた雰囲気を確かに感じることができた。
 乱暴な音の印象が強いバンドは、知らないと近づくのさえ憚ってしまいがちだけれど、このアルバムは初めてでもちゃんと引き込んでくれた。

次回予告

次回は、ブランキー・ジェット・シティ『Bang!』を扱います。

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