見出し画像

Velvet Underground『The Velvet Underground & Nico』(1967)

アルバム情報

アーティスト: Velvet Underground
リリース日: 1967/3/12
レーベル: Verve(US)
「『歴代最高のアルバム』500選(2020年版)」における順位は23位でした。

メンバーの感想

The End End

 初めてフィードバック・ノイズが聴けたかも。その昔一度聴いてみた時はさっぱり分からなかったのだけど、ここまで聴いてきたアルバムたちを踏まえると何を意識して作っているかなんとなく思い浮かぶ。
 当時のロック/ポップスの最先端へリーチしている、言い換えれば大きな存在と肩を並べようとしているのではないかと感じるけれど、制作環境の制約からか本人の嗜好からか、全編を通して鬱屈としたザラザラの音像に包まれていて……名の通り、アンダーグラウンドと呼ぶにはヴェルヴェット過ぎるし、ヴェルヴェットと呼ぶにはアンダーグラウンド過ぎる。もしかして、この所在なさが魅力なのかしら?なんだかずっと、わかって欲しそうにしているところが。

コーメイ

 最後の「European Son」をはじめ、破壊的な音楽があると思えば、同時期の音楽潮流に乗ったそれもあり、想像よりも幅広い音楽が収録されていたと思われる。前半は、後者の1960年代の動向に沿ったものが多かったようだ。しかし、後半になるにつれて、様々な音が、混在して、秩序を求めるよりむしろ、無秩序へと移行する様子が確認されて興味深かった。

桜子

 気怠げで、力が抜けていて、なんだか夢見心地だった。ベースは見えないくらいに底にいるように広いものに感じて、怪物みたいだと思った。ボロボロな音像がそんなムードを助長していて、この世とは違う次元のものを聴いている気分だった。

湘南ギャル

 なんかもうずっと怖いんだよ。森とか山とかと同じ種類のこわさ。ちょっと散歩しようと立ち入っただけなのに、気付いたら知らないところまで連れて行かれている。見慣れた景色が出てきたと思って駆けよっても、そこには幻しかない。家に帰りたいのに、奥まで見たい欲望に抗えない。不思議な魔力を纏ったアルバムだ。

しろみけさん

 カントリー……? 何がしたいの、この人たち。「Run Run Run」や「European Son」など、忙しない奏法からこれまでの歴史との微かな接続が伺える。ただ、そんなものは脱ぎ捨てられ、踏みつけられなければならない。ロックの脱皮、その真っ最中を抑えた非常に重要な一枚であるように感じられた。茶色い皮を脱ぎ去った直後の、真白なセミのごとき儚さ。美醜が混在した異形の誕生。

談合坂

 ツイッターで"変すぎる"ってレビューが書かれていそうだな〜という第一印象。そんな感想を抱くのは、なんだかこれが歴史のなかのものじゃなく生々しく聞こえてくるからのような気がする。響き自体は古いといえばそうなのかもしれないけど、普通に現前のものとして作用しているという感じ。

 Sonic Youthしかり、Yo La Tengoしかり、90年代のオルタナティブロックのバンドを聴いているとVelvet Undergroundの直系だなと感じる瞬間が多い。執拗に繰り返されるフレーズやメロディーと語りの間を行き来する歌唱など、Velvetおよびルーリードが残したものは現在まで残っている。じゃあVelvetも、そのフォロワーも、はじめから"オルタナティヴ"になるべく活動していたのか、と言われたらそれは間違いだろう。自分たちの美意識や感性に従って曲を作った結果が"オルタナティヴ"と呼ばれるような感覚のスタート地点になったに過ぎない。その感覚のグラウンドゼロだ!

みせざき

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドという地下から這い上がってきたバンドは鬱屈した日曜の朝を歌い、娼婦との約束を歌にし、ボロボロの衣服でパーティーに参列する女性を歌い、ヘロインでハイになる様子を歌い、女王に慕え靴を舐める女性を歌い、黒い悪魔の死を歌う。
 そしてそれらはギコギコしたヴィオラと共に、時には単純なコード進行で、時には1コードだけの掻き鳴らしによって届けられる。ルー・リードは時にメロディアスな様子で歌うが、基本的にバックの音楽をほとんど無視するかのように言葉を吐き捨てて歌う、
 異端だが作品全体で聴くと纏まりがあるようにも思えるし、無いようにも思える。でもそれは我々の心を掴む音楽では無いように聴こえるが、またあるようにも聴こえる。不思議にも1967年に作られたこのアルバムは時代を飛び越えパンクや、そしてオルタナロックの下敷きとして聴こえてしまう気がする。

六月

 衝撃度では、正直ビートルズよりも超えてると思う。だってこのアルバム一枚でその後のロックをほとんど全部やっちゃってるんだもん。
 "ほとんど発売したときは売れなかったが、当時このレコードを買ったやつ全員がバンドを始めた"というのはブライアン・イーノ御大の言葉ですが、それはハッタリなんかではなく、軽音サークルで「Heroin」をコピーした際、GとDのコードを弾くだけでここまで過激な音楽ができるんだと改めて驚いた覚えがあった。そのように、ルー・リードはこのバンドを組む前に会社お抱えの作曲家でもあったそうなので、どの曲もキャッチーで作曲のレベルではそんなに複雑なことをしていないように肌感では感じるのだけれど、それを1967年から今現在までの長い時間の壁を突き破ってくるくらいに過激で斬新なやり方で演奏してみせたということがこのレコードのとっても偉大なところなんだろうな。どの曲もほんとうに革新的なのだけれど、その中でも"何?!"となるのは「The Black Angel's Death Song」。嘘か真かはわかりませんが、この曲をライヴ・ハウスを兼ねたバーみたいなところで演奏した際に、そこのオーナーから"次この曲を演奏したらもう二度と呼ばない"と言われ、その翌日に普通に演奏してクビになったそうです。実際にこの曲のヴァイオリン?のノイズを聴くと、当たり前だろと思わざるを得ないし、演奏した時の客の引き攣った顔がすぐに思い浮かべることができる。

和田醉象

 西洋のポップス音楽の発展が一つの大きな川の流れなのだとしたら、ここでまた支流が明確に生まれたと感じる。これまでの川の流れでも捉えられる一面もあるが、それ以上にこのアルバムが評価されているのは絶えず裏切られる新しい切り口にあるのだと思う。(この後レビューするアルバムの見ていると支流作りまくり、という感じだが明確に皮切りになっているのはここら辺だと思う)
だけどかなり荒削りだ。今までも何度も聞いてきたけどあまり受け付けてこなかったし、今でもこれより後の作品の方がVelvet Undergroundのカタログでも好ましく感じる。それは彼らの新しい切り口への取り組み方が洗練化され、守破離で言えば破くらいまでの段階に来ているからだ。(取り組み方が斬新にもなり、音を誇張しまくっているようにも感じれるので面白の領域にも達しているとも思う。)
だけどこうして聞いてみて思うのはM1『Sunday Morining』やM6『All Tomorrow’s Parties』などで見られる美しい旋律だ。彼らも元は大きな川の流れに属していたのだ。自己流では守破離の守を作っている段階でも、元の流れの尺度で言えば守破離どころか白眉ものの内容だ。むしろそれらをどう自分達の流れに持ってくるか、取り組んでいる必死さも感じる。

渡田

 子守唄のように穏やかに始まる音楽は、外部から耳に入ってきた音楽というより、体内部に元々あった音楽のように思える。輪郭が曖昧なドラムとギターの音からは、血流とか鼓動とか、身体由来のリズムを感じさせられた。それらの音が、次第に不気味で激しいノイズに姿を変えていく曲構成からは、考え事に集中しすぎた時の、精神が静かにたかぶっていく時の感覚を味わえる。
 楽器の音も、ルー•リードの呟き声も、静かな音でできているのだけれど、その穏やかな印象の水面下で倒錯したエネルギーが溜まっているのを感じる。

次回予告

次回は、Jimi Hendrix Experience『Are You Experienced?』を扱います。

#或る歴史或る耳
#音楽
#アルバムレビュー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?