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関西出身でないことは罪なのか~JR福知山線脱線事故、ある遺族とのこと

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JR福知山線脱線事故で、取材に応じる被害者の心境にはいくつかの類型があったことを紹介してきた。

初回で紹介した、妻を亡くした男性のことも、その流れで書いておこうと思う。

男性と初めて会ったのは、事故発生後1カ月ほど過ぎた2005年6月3日だった。大阪市内の中心部で管工事の会社を経営しており、取材場所はかならずその事務所だった。男性が社長兼作業員で、亡くなった妻が経理その他を切り盛りする役員、社員は総勢3人という小さな会社だったから、大黒柱を失った会社は機能がまひし、男性は毎日、事務所で茫然としながら亡き妻の思い出に浸っていた。

実はこの男性は別の同僚が取材を担当していたのだが、私とこの同僚が2人でこの事務所を訪ねる機会があった。正面玄関はシャッターが降りていて、同僚はインターホンを押さず「ああ、いないみたいですね。またの機会にしましょう。じゃあ私は別の仕事があるんでこれで」と立ち去っていった。

ピンポンを押すのは、たとえ1軒でも相当、勇気と覚悟がいる作業なので、そうしたくない気持ちは非常に理解できる。誰もそんなことはしたくない。これについては次回。

しかしその場に一人残された私が、何となく一軒家の事務所をぐるりと回ってみると、裏口が半開きになっていて、そこから光が漏れているのを見つけてしまった(見つけなかったら、そのまま立ち去ることもできただろうけど)。半開きだったので「ごめん下さい」といいながらそっと中に入ると、男性が机に座って、妻の写真をパソコンに入れたスライドショーを見ていた。

「もういろんなマスコミが入れ替わり立ち替わり訪ねてくる。あんたみたいに若い人が一生懸命やってるから、こんな事故を二度と起こさんようにという意味で、こちらも協力したろう思うて聞かれたことには答えるけどな。でもあんたんとこ後発やから、どの新聞にも載ってる話やで」

男性は憔悴しきった顔つきで、妻を亡くして会社が立ちゆかなくなったことや、妻との思い出などを次々と語り出した。取材メモを見返したら2時間半、ずっと話していたようだ。

そうなると社会部の上司は、「話を聞き出せたのだから、関係が作れているのだろう。引き続きよろしく頼む」と判断し、担当は私に変更ということになり、折に触れて訪ねて行って話を聞かせてもらう私のルーティンワークに組み込まれた。

妻との思い出のほか、法事のこと、JR西日本の遺族対応や安全対策のこと、被害者同士で横のつながりを持って活動しようとしていた「4・25ネットワーク」のことなど、話はたくさんあった。「何もかも、運命やったんや。嫁さんと巡り合ったのも、事故で亡くなったのも」という独特の生命観を、夫婦で大好きだったという70年代の音楽、特にアリスの歌詞に関連づける語り口は、強く印象に残った。

男性は訪ねてきた記者には基本的にすべて誠実に応対した(一度だけ、葬儀の準備でバタバタしている時に入ってきた記者を怒鳴って追い返したことがあったらしく、取材はすべて事務所で受けていた)。訪ねて行くと、時には他社の記者と話していることもあった。そのときは外で待ちながら、他社の記者が帰ったのを見計らって、裏口から入った。そこから何時間も取材に応じてもらう。もしかしたら、私が帰るのを、別の記者も外で待っていたかもしれない。それでも男性は取材に応じ続けた。

「通夜と告別式で悲しみはピークなのかなと思ってたけど、違うね。沈んだ気持ちがどんどん上がっていく。通勤の車の中で涙が止まらなくなる。それがだんだんひどくなるんや。こうやって、誰かと話している方がずっと楽や

「帰りに『仕事抜きでも寄ってや』と言われた」

メモにはこんな記述もあった。それが本音だったのだろう。

あるとき、男性とちょっとした口論になった。男性について私が書いた記事の、細部が一部、事実と違っていたことが発端だったと記憶している。男性はそのことについて指摘した後、私の態度が悪いと叱り始めた。やがて興奮してきた男性は「会社は開店休業やし、法事その他に加えて、あんたらに応対するのに時間を取られてろくに睡眠も取れてないんや」と怒り始めた。

私は「それなら(取材を)断って下さいよ。自分の体が第一でしょう」と言い返した。現にたくさんの人から山ほど断られているし、取材を受けない自由も当然、遺族の側にあると思ったからだ。

次の瞬間、男性は逆上した。「何やお前!自分の息子ぐらいの年の記者が一生懸命取材しにやってくるから、協力したろ、いう気になってこっちは精いっぱい応対しとるのに

私はこの瞬間、男性が記者の熱意や情にほだされて取材に応じていることを知った。自分の子どもと年齢が近い記者が、夜遅くにやってくる。仕事なのに、休みも取れずに、さぞかし大変だろうという親心のような心境だったのかと。正直、意外でもあった。

人柄が温厚で優しくて、どんなむちゃな取材も絶対に断らない、メディアの側からすれば神様か仏様のような遺族にも、この事故では結構巡り合った。きっと「自分の子どもと同じくらいの年齢の記者が大変だなあ」という心境だったと思う。そういう方々に無理をお願いするのは、こちらとしても胸が痛むことだった。やがて善意につけ込んだ安易な企画も目にすることになった。おそらく事故1年ぐらいの話で触れる。

男性にはその後も、事務所で取材に応じてもらっていたが、あるとき、私に一つの頼み事をしてきた。「妻と仲良しだった女性が淡路島にいるが、もう何十年も会っておらず連絡先も分からない。探し出してほしい」という依頼だった。私は「脱線事故の遺族が、妻と仲良しだった女性の消息を探している」という記事を書くことを提案し、男性から詳細を聞いた。記事は淡路版(と神戸版)に掲載され、後日、記事を見た女性から男性に電話が来た。

電話は男性が不在の間に留守番電話に吹き込まれていたが、男性はかけ直す余裕がなかったという。それでも、連絡があったことで、男性から大いに感謝された。

ただ、後日、私にとっては衝撃の事実を知る。

事故から2年がたとうとしていたある日、JR西日本の遺族対応に疑問がわいたので、遺族の反応を取材しようと、久々にこの男性に電話した。自分の思いを交えながら男性とひとしきり、話をした。

話が終わる頃になって男性は私に言った。

「あんた、久々に話したら、関西弁がうまくなったのう」
「ありがとうございます」
「前にうちの会社によく取材に来てた頃は、『何やこいつ、東京の言葉なんぞしゃべりおって、偉そうに』と思っとった」
「ええっ、そうやったんですか?」
この話だけでも衝撃だが、男性の言葉はさらに追い打ちをかけた。

「あんたに淡路島の知り合いを探してもらったときのこと、覚えてるやろ。あれはな、あんたのことが気にくわんかったから、困らしてやろう思うたんや。でもあんた、ようやってくれたから見直した」

がーん。取材態度など、ほかにもまずい点はあったのかもしれないが、不愉快に思われていた理由があまりにも意外すぎた。東京の言葉は偉そうに聞こえるのか。関西出身でないことは罪なのか。崖の底に落ちて目の前が一瞬で真っ暗になったような気がした。そんなことを言っている男性も、集団就職で九州からやってきたはずなのだが。

まあ、今思えば、男性なりの照れ隠しだったのかもしれない。当時は私も必死だったが、だんだん年を取って男性の当時の年齢に近づいてくると、家族ではない、息子ほど年の離れた他人に語り続けることで、悲しみや苦しみが和らぐ側面もあったのではないかと、当時の男性の心境を推測するようになった。

男性には10年目まで毎年、命日にお花を贈っていた。ときどき「元気でやっています」とお礼のショートメッセージを頂いた。事故後、必死の思いで再開した会社も、しばらく前に廃業した。今はどうしておられるだろうか。

(つづく)

※2019/05/11 9:02 当時の取材メモが出てきたので一部追記

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