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片想いは散髪のように

「髪、切った?」「いい色に染まってるね」といった言葉は、挨拶のような気軽さで口にしてきたし、自分自身に向けられたこともある。しかし、殊に他人の髪に関しては、それ以上に観察したことはなく、無頓着であったと言っていい。見苦しくなければいい、というくらいに考えていた。

そんな私が「美しい髪」と聞いて思い出したのは、こんなエピソードである。


それは大学三年生のときだった。

これまでの恋愛経験の中で、唯一年上の女性に恋をしていた時期である。彼女は私よりも二歳年長で、私の通う大学の大学院に通っていた。日常的にキャンパスで顔を合わせることはないのだが、私がしばしば利用していた文房具店が彼女のアルバイト先だった。そこで偶然出会ったのである。


小柄な彼女は、とても明るい女性だった。レジに商品を持っていったときはもちろん、店内を眺めているだけのときでも笑顔で対応してくれる。「身体の割に声と胸が大きいのがチャームポイントだから」と冗談っぽく話していたのを鮮明に思い出す。


当時の私は、毎日のようにボールペンを使ってレポートや論文などの書きものをしていたので、場合によっては一日でインクを使い果たしてしまうこともあった。そこで思いきって箱で買おうとしている私の様子を見て、「ゲルインクだとすぐになくなっちゃいますよね」と声を掛けられたのが、実質的な初めての会話だったと思う。

「そうなんですか?」
「もしもインクを長持ちさせたいなら、油性インクの方がいいですよ」
「初めて知りました。でも、ゲルインクが好きなんですよね」
「私もです」

たったそれだけのやり取りだったのだが、今でもこのように思い出せるほど印象的な場面だった。それからというもの、店に行くたびに交わす言葉は増えていった。疲れた頭をゆらゆらとほぐすように揺らしながら、大学帰りに立ち寄るのは癒しのひと時であった。互いに同じキャンパスで法学を学んでいるという共通点もあって、親密さは急速に深まっていった。


そして、いつしか私は恋に落ちていたのだろう。


何ということもなく買い物していたはずの店なのに、訪れる頻度を数えている自分に気付いた時から全ては始まった。「あまり頻繁に行くと勘ぐられるかな」「行かない期間が長くなって忘れられちゃったら寂しいなあ」といった具合である。相手は何とも思っていないであろうことを、必要以上に意識してしまう。

ふとしたときに彼女のことを思い出すと、心臓が大きく鼓動する感覚を覚えた。「胸がきゅんとなる」という表現を身をもって知ったのは、あるいはこの時が初めてだったかもしれない。高校時代に恋人がいたのとは違う、片想いの動揺を感じていた。

また、本人がいるはずのない学部の講義で、彼女と似た後ろ姿の女性を見かけると、つい目で動きを追ったりしていた。そんな自分に嫌気がさしながらも、それを楽しんでいる気持ちも隠れていた。


そんな中での冬のある日、いつものように店で働いていた彼女から、水族館への誘いを受けた。私が、二つ返事で喜んだことは言うまでもない。店内で待ち合わせを決めて、その週末に会うことになった。


文房具店のエプロンをつけた姿でしか彼女を見たことがなかった私には、白いセーターに身を包んだその人を直視することはできなかった。一人で密かに照れながら、目的地へと向かった。

イルカショーを見ながら隣で微笑む横顔が眩しい。時に姉のように、時に幼馴染のように振る舞う様子を見ていると、恋心が更に強まってゆく気がした。不意に小さなバッグに入れていたガムを取り出して、「いる?」と尋ねてきた表情は太陽だった。

以前からペンギンが好きだと言っていた私に、売店でペンギン型のゼムクリップを買ってくれた後で、夕食を摂った。お酒があまり強くない彼女は、レモンサワーをゆっくりと飲みながら、焼き鳥の肉を串から一本一本抜いて取り分けてくれた。「僕がやります」と言っても、聞いてはくれない。ただ穏やかに、その“とき”を楽しんでいるように見えた。


帰りは、駅の改札口まで見送った。

その別れ際のことを忘れることはないだろう。券売機の脇に私を引っ張って、彼女は話し始めた。

「自惚れだったらすごく恥ずかしいんだけど、ひょっとして私のこと好きになってくれてるの?」

全ての恋愛がこうだったら、告白はどれほど簡単なことだろうか。否定する余地もなく、私は「はい」と答えた。

「やっぱり。Halくん、意外と分かりやすいね。すごく嬉しい」

でも、と彼女は続けた。半ば想像はついていたことだ。

「でも、私には彼氏がいるんだ。あんまりうまくいってないんだけどね。――だから、気持ちに応えられそうにないの。本当にごめんね」
「いえ、片想い、楽しかったです」
「だから、今日はデートに誘ったの。お互い恋人気分を味わいたくて。ほら、おいで」

そう言うと、彼女は両手を広げた。「今日は私の彼氏だから」と笑う。

促されて抱擁を交わすと、背の低い彼女は私の胸元に顔を当てた。ふんわりと髪が香る。しばらくそうしていて、ようやく離れると、彼女は「ありがとう」と言って別れを告げた。


改札を抜ける前に、彼女はこちらを振り向いた。互いに手を振る。そしてまた前を向き直った時にさらりと流れた一つ結びの髪が、駅のうすぎたない蛍光灯に照らされて、やけに美しかった。

それは、髪を超えた髪だったのだと思う。ほんのりと染色していた彼女の髪は、私の心の中で、今も寂しげな色にきらめいている。

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