パラレルワールドと嫉妬されるべき人生

人は誰もが多重人格だよ、とある人は言った。

「多かれ少なかれ、誰もがその場その場で求められる役割を演じていて、そのどれもが嘘でもなければ、その全てを掛け合わせたところで本物でもないのだ」と。

ならばこの目で触れる世界など、ほんの一面でしかない、ということ。人は見たいものしか見ないように、見せたいものしか見せないのかもしれない。


東野圭吾 著の小説『パラレルワールド・ラブストーリー』が映画化され話題になっている。

おそらく五回は読み返しているであろう原作の結末を、なぜだか私はいつも覚えていない。これまで数千の本を読んできたけれど、そんな本はこの一冊だけだ。

『パラレルワールド』とは本来、ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の時空のことを指している。が、本作におけるキーワードは時空ではなく「記憶」。

物事を自分に都合のいい方へと解釈して記憶を塗り替え続けた結果、最終的に自分の理想とする世界=別の世界にいるかのように感じてしまう、という仕掛けである。

二十年以上も前の本作が今映画化されたのは、現代社会がまるでパラレルワールドのようだからだ、と強く思う。

終身雇用や法律結婚ではなく、副業やポリアモリー(複数恋愛)が普及しつつある昨今。依存先を増やすことが「安定」で、リスク分散がもたらす「自立」が幸せの定義になり得る時代。

ならばその時々のパラレルワールドを器用に住み分けていくことが、賢い「優しさ」になり得るのか。

そんなところが、本作の問題提起と類似している気がする。
自己防衛本能から塗り替えた記憶は、決して真実ではない。全ての真実を知ったところで人は幸せになるのか、それに耐えうるのか、いっそ知らない方が善なのか。


私は長年「知は無知に勝る」と信じて疑わなかったけれど、最近そうではないかもしれない、と思う出来事があった。

一度足を踏み入れた平行線の片側では、歩き続けることよりも立ち止まることの方が難しい。真実を知ったところであちら側には到底いけそうもないならば、知らないままこちら側を歩いていた方がずっと優しくいられた。

けれど知ってしまった以上、解釈を変えるほかないのだと感情を麻痺させ始めた頃、本作の予告CMで流れた主題歌にぐっと心を引き戻された。

今日が人生最後の日でも
あなたに出会えて幸せでしたと
言えるよ
どんなにどんなに謙遜したって
嫉妬されるべき人生でしたと

【 嫉妬されるべき人生 宇多田ヒカル 】


一見惚気のように思えるこの歌詞が、なんとも不安定なメロディーラインにのって心を揺さぶってくるのは幸福と対の『喪失』を唄っているからだ。

実はこれは映画の書き下ろし曲でなく、昨年発売されたアルバム『初恋』のラストを飾った収録曲。老夫婦が生涯添い遂げるイメージを描いたという宇多田ヒカルさんは、当時のインタビューでこんなことを語っている。

たとえば「愛してる」と言ったとしても、その気持ちは明日どうなるかわからないし、永遠かどうかなんて証明のしようもない。だから究極のラブソングを考えた時、死(喪失)をもって完結すると思った。


人それぞれに幸せの形があるのは大前提として、喪失を恐れ、記憶を塗り替えた理想の世界に私のそれはあるのか。

私が何度読んでも原作のラストを忘れてしまうのも、未だあちら側に行けず毎度傷ついてしまうのも、きっとそんなことを諦めたくないからだと思う。

どんな真実であれ知は無知に勝るし、記憶の改変によるパラレルワールドなど優しさでも賢さでもなく弱さや淋しさだと。


このなんとも言えない不穏な読後感は著者ならではだけど、いつかの気持ちとよく似ているなあと思ったら万華鏡を覗いた時でした。よく行くバーには大きな万華鏡があって、クルクルと変わるそれを見ていると全てが綺麗すぎて怖くなるのです。

たったひとり互いを肯定して守り合える人がいれば他のことは取るに足らない、それは嫉妬されるべき人生だなあと、結婚会見で涙ぐむ蒼井優さんを見て心温めなおす夜なのでした。

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