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言葉を否定する人は、言葉に泣く


私は幼い頃から言葉の虜でした。
綺麗な言葉、複雑な言葉、汚い言葉、摩訶不思議な言葉

うまく自分の気持ちが伝わらないという大きな壁をどうしても壊しくて、いつも言葉と向き合っていたように思います。

言葉は本当に奥が深い。
同じ意味なのにニュアンスが変わるだけで伝わり方が変わる。

方言、江戸っ子言葉、幼稚な話し方、一人一人が自分の国語辞書を背負っている。

私はいつも小説を書く時、そのイメージを忘れないようにしていました。

なんですか?

なに?

なんやねん

どうしました?

どうした?

でぇしたってんだ

同じ言葉でも、伝わり方が変わります。
古い言葉もそう。

ブラジャーを乳当て布や乳おさえと言う時代は終わりました。

言葉はどんな言葉を使っているかというのも大事ですが、どんな気持ちで伝えているのかが大事です。行間を読むという言葉があるように、私たちは見えない場所にも目を配りながら言葉を拾う必要がある。

そして説明でいえば、結論だけではなくその上下間に付随する言葉です。
一文だけ読んで解釈した気になってはいけないなと思っています。

間違っちゃいけない

それは言葉を発する人にも、受け取る人にも言えることです。
けれど間違えないというのは中々難しいです。

じゃあ、少しでも見分けをつかせるために何をすればいいのか。

それは相手の心を見ることだと思っています。

言葉は武器にもなるし、騙しや脅しにもなるし、癒やしにもなる。

言の葉ひらひら

そんな言葉をよく耳にしますが、私たちはそのひらひらと落ちる“言の葉っぱ”をどう受け取るべきなのか考える必要があると思います。

言葉を発する時もそう。

相手の手のひらに受け取ってもらえるように、どこに言の葉っぱを落とせばいいのか考える必要がある。

考えるのは面倒ですよね。疲れますよね。
私も時々、いや毎日かもしれない。嫌になる時があります。

でも考えれば考えるほど、受け取って欲しい人の元に葉っぱが落ちていきます。
受け取ってもらえます。

受け取る時も綺麗に受け取れるようになってきました。

まだまだ落としてしまったり、落とされてしまうこともありますが、受け取ってもらえた時、受け取れた時の感動はなんとも言い難い気持ちのいい感覚です。

誤解のないように伝えていくのは、心を解放させる意識が必要かもしれない。
偽りや、憤りや、モヤモヤや、悲しみがあっては伝わりにくい。

そんな時は「モヤモヤしてるから不器用な言葉しか出てこないかもしれない。伝えたいことをうまく伝えられないかもしれない」そんな前置きがあると、お互いに気持ちよくお話ができるかもしれませんね。

たった一言の言葉に対して、揚げ足を取る人たちが好きではありません。
言葉はそんな風に作られたわけではないし、そういう意味で発していない人たちに対して失礼だからです。

お役御免という言葉は、本来「いい仕事をしてくれているけれど、時期(例えば世代交代や、会社の事情など)でお役御免」というような意味合いで使うことも多くありました。

けれど今や違う意味として認識されやすいです。

決して悪い意味だけで使われていなかった言葉を「お前は役立たずだからお役御免」という風な解釈で使われているのは少し悲しいですが、これも時代の変化です。

でも知っていて発するのと、知らずに発するのとでは違います。
いつも言っていますが、無知は無意識のうちに誰かの傷になりやすい。

私も多くの言葉を知っているわけではありませんが、今の言葉も昔の言葉も雑には扱いたくないなと思っています。

分からなかったら辞書を引くというのは癖づけています。
そして、なるべく多く人が愛する言葉で、分かりやすい言葉でこれからも活動できればいいなと考えながら、日々精進、なるべくこれからの人生は美しい人でありたいと思っています。

REN

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