見出し画像

陸海の交通の要衝 細川忠興築城の小倉城 [続日本100名城] [福岡県北九州市]

(2020年10月の攻城記録)


今回は小倉城を攻城した話になります。
小倉城を築城したのは、関ヶ原の戦い後にご褒美で豊前と豊後の一部を頂いた細川忠興です。嫁(正室)は明智光秀の娘、玉さん。またの名を細川ガラシャ。詳細は割愛しますが、関ヶ原の戦いの前に亡くなっています。

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」でこの2人は時々登場しておりますね(笑)

さて、忠興さんは最初は豊前中津城に入りますが、お気に召さなかったのか戦略的に小倉の地が良かったのか、中国の毛利氏の城があったこの地で大規模な築城を行います。南北約1.6km、東西約1.75km、福岡城と同じく城下町全体を掘りで囲んだ惣構えの城郭です。


石垣にこだわりがあるようで、関ヶ原の戦い以後は打込接という技法が主流となるのですが、「石を加工するのは誰にもできるが、美しく大きな石を集めさせることは権力者にしかできない」と野面積みを多用したとのこと、これが楽しみの1つ。

もう1つは、八坂神社の前に残っている大きな石にまつわる伝説(?)で、その石をどんな石かこの目でみてみたいんですね。




博多駅から鈍行電車に乗り、小倉へ向かいました。
西小倉駅に降り立った時点で、当時の縄張りでいうと小倉城内に入ったことになりますが、ここから少し歩きます。お堀が見えてきました。

しばらくお堀沿いをテクテクと、北の丸、本丸の石垣を眺めながら歩きます。ちょっと雑草で石垣が見えにくいところもありますが、なるほど、確かに野面積みですね。



西の口門跡から本丸へ向かうことにします。

西の丸門は本丸と松の丸へつながる門です。



ここが松の丸跡ですね。



中老以下の一般武士が通行したという鉄門跡。

右側と左側で石垣のテイストが違っていますが、右側は後年修復か何かしたのでしょうか。



井戸跡。


藩主、家老などが通行していた槻門跡。



そして、お城の正面玄関、大手門跡。

正門だけあり、石垣の石は大きいものばかり使ってますね。



大手門を抜けると、天守が見えてきました。
これは復興天守で、史実として天守が存在していることはわかっていますが、天守の資料がないためか、当時通りには再現されていません。



それでも天守台の石垣は当時のものです。



本丸跡は市民の憩いの場のようになっています。


ん?佐々木小次郎と宮本武蔵の巌流島の戦いの様子ですか?
当時の藩主は、、、、細川忠興さんでしたね!



多聞口門跡。

本丸から北の丸への通り門です。



北の丸はというと、、


八坂神社がありました。



北の丸から本丸の石垣を眺めます。



八坂神社を出てみると、、



ん?大きな石が参道の両脇にありますね、、。

こ、これが例の石ですか?!っていうか、どっちですか?それとも両方ですか?!
案内板を見てみると「中津門の石垣として使用されたもので、大改修の際、富野大谷から運ばれたもの」とあるではありませんか、、、それだけっすね、、。

これを家来に引かせていて、あまりの重さに途中で動かなくなってしまったことにカッとなって責任者の首をはね、これに恐れをなした家来たちは必死になって石を無事に小倉城に運んだという、忠興様の気の短いエピソードはなく、、やはり真偽のほどがわからんのう。


まあ、そんなこんなで石垣にこだわった忠興様、改めて天守台の石垣をこうして見ていると美しいですねえ。



大手先門跡。ここをくぐって大手門へ向かいます。

再び、大手門から天守へ戻り、天守の中に入ってみます。
写真撮影は、OKのものと、NGのものがあり、この使い分けが面倒臭かったので、もう撮影しないことにしました。


天守の中はちょっとしたエンターテイメントな空間になっていて、子供も十分楽しめるし、勉強になるのではないでしょうか。個人的には細川忠興様のファッショナブルな具足が見れたことが幸せでした。



天守の最上階からの眺めです。

ぐるっと小倉の街を見下ろしますが、思ったより高くないですね。



小倉城を攻城した後は、大手門のそばにある「しろテラス」に立ち寄りました。

抹茶と城最中を美味しく頂きました。



小倉駅へ向かう大通り沿いに石垣の跡が残っていました。

算木積みの隅石の切り出し跡とか、思いっきり野面積みの石垣を見て、忠興さんの石垣感を垣間見れたようで、なんだかほっこりしてしまいました。


文武両道で茶湯もガチンコで嗜み(利休七哲)、名将なのか単にヤバイやつなのか(嫁が絡むと特に)紙一重みたいな忠興さん、なんかいいなあ、、(笑)


サポートして頂けると単純なのでものすごく喜びます。サハラ砂漠の子供達のために使います。