奪還したもの喪失したもの

ついに職場復帰、コンクリートジャングルに帰ってまいりました。
まず朝起きられるのか、四六時中メールちゃんとチェックできるのか、限られた時間の中で物事を効率的にこなすってどうやるんだっけ、娘シックにならないか、おしゃれなオフィスファッションってどんなだったっけ、そもそも法律覚えてる? なーんていろいろな不安に押しつぶされそうになりながらの恐る恐るの復帰でしたが、あれ?6か月の育休生活がなんだかポコッと記憶から無くなりそうな、そんな自然なニ週間・・・。
上司や同僚がみんな「ベイビーは大丈夫?」「離れるの辛いでしょう?」なんて心配して声かけてくれるのだけど、正直に言いましょう、全然大丈夫です。
なんだろう、わたし母性本能とか愛着形成とかなんかそういうものが大きく欠けてるのかしらん、と思うほど、寂しさとか不安とかはなし。それもすべて、信頼できる夫、信頼できるナニー、信頼できるデイケアのおかげなのだけれども。

産休育休中は、頭の中から娘の存在がゼロになる瞬間ってまず訪れなくて、何をしていてもどこにいても、子供の安否はすべて母親である自分の双肩にかかっており(ほんとは全くそんなことないよ、みんなで守るんだよ、子供は!でも、実際勝手に感じていたプレッシャーはおそらく荒野に子供と二人取り残されているような感覚に近い。なぜそこまで大層な話になるんだってかんじだけど)、頭では無理しすぎる必要ないとわかっているから夫やナニーに預けて遊ぶ時間とったりするんだけど、なぜか心の奥底の罪悪感とか、自分が完璧な母親ではないと認めざるを得ないことへのストレスとか、地味に感じ続ける日々が続いた。よく寝る育てやすい娘、太陽のようにニコニコな夫、なんとかナニーは雇える経済的余裕、とらくちん子育ての三種の神器がそろっているにも関わらず、である。つまり、あの感覚って、実際の労働量や環境起因のストレスによるのではなく、頭のどこかに埋め込まれた刷り込みからくるものだったように思う。
特にこれまで仕事が人生の大半の部分を占めてきた人間にとって、元気なのに長期間「仕事をしていない」という状況は、学生であるか、プロ専業主婦(または主夫)にしか許されないことのように思ってしまっていた。かといって当然完璧な専業主婦になれるような人間でもなく、振り返ってみてもなんだかポンコツだったなあと自分で笑えてくるけど、それでも娘はすくすく健康に育ち、夫とも仲良しで、ぺぱおも元気。これで良いのだ。家族が笑顔。それさえあれば、仕事も育児も家事も、完璧でもポンコツでも大差はないのだろう。笑

とりあえず、職場復帰をして感じたことを書き残しておこうと思う。

まず、「仕事」という印籠の威力。「仕事だから」と言えば何でも許されちゃうあれ。これまで、それを当たり前に振りかざしてばかりいたなあと。友達との予定にも「仕事だから」遅れ、親との約束も「仕事だから」リスケし、返さなきゃいけない連絡も「仕事忙しくて…」と放置し。育休中、待つ側の立場になって見て、「本当にそれで良いんだっけ?」と思えるようになった気がする。「仕事」って忙しすぎると自分を縛り付ける義務のように感じ始めるけど、本当は自分が積極的に選び取った自己実現の場であり、社会から無条件で正しいと認められる数少ない時間の使い方のひとつだってこと。(しかもお金まで貰えちゃう。)それを言い訳に、他人の時間奪ったり、約束破ったり、ひとを傷つけたり、色々できちゃうのだ。勝手だよね。私は家族ができるまで、仕事以上に優先度の高いものは自分の健康くらいだった。しかもそうやって仕事をしまくっていることを「えらい」とすら思っていた。ほんと、もし私が男性で「尽くす女性」タイプの専業主婦の奥様でももらっていたらモラハラ男まっしぐらだっただろうなと思う。(女で良かった。)それに比べてうちの神夫は、あれ、仕事大丈夫?って心配になるほど家族(私?)ファースト。にもかかわらず、育休中、めずらしく夕飯の時間が過ぎても連絡なく帰ってこない夫に、「待ってるんだから連絡のひとつくらいして!」とクレームし、「ごめんよ~ミーティング長引いちゃって連絡できなかったんだよ~(凹)」と言う夫を見ながら、出たよ仕事印籠!と憤慨したこともあった。これまでの自分の所業はすべて棚に上げて。
いずれにしても、復帰した私は無事に印籠を奪還した。ただしもうむやみに濫用はしない。しないはずだ、しないと思う、しないんじゃないかな、たぶん…

そしてもうひとつ、私がとても今戸惑っていること。産休明けの一時的な現象なのかもしれないけれど、どうも「アドレナリン」が出ないのだ。これまではずっと、仕事をしているときに文化祭の準備をしているときの感覚に近いものがあった。忙しい、寝れない、やばい、間に合わない!でも楽しい!!みたいなあれ。でもなんだか今はそうではない。この仕事は相変わらず好きだし、朝娘をデイケアに預けて、先生たちと軽くおしゃべりして、"Have a wonderful day at work, Mama! She'll be in good hands!" と言われた瞬間に始まる自分だけの時間はたまらない。仕事に集中しているときは他のことは全く考えてないし、さっそくうっかり昼も夜も何も口にせず終日働いてしまった日もあった。でも、初めて単身NYに来た頃、マンハッタンに聳え立つ我が事務所本社を見て、誇らしさと怖さとワクワクとで武者震いをした感覚がもうどっかに行ってしまったのだ。これはただ数年たって慣れてしまっただけなのか、それよりももう少し深い、価値観のところの変化によるものなのか、まだ私にはわからない。でも確かなのは、今の私はアドレナリンだけで全てのことを犠牲にしながら仕事に没頭することはないのだろう。健康、幸福度、経済力、責任、やりがい、市場価値、家族の笑顔の量、そういったことを総合的に勘案して、この仕事が一番だと思ううちはやる、やるなら責任を持ってしっかりやる、そういうことなんだろうと思う。そして、逆に気持ちがふわっと楽になっている。人生一度きり、好きなように生きたら良い。やりたいようにやんなよって言ってくれる夫がいて、もうすでにママなんかちょっといなくたって全然ハッピー♪な頼もしい娘がいて、無償の愛を家族に注ぎ続ける愛犬がいる。

「嫁が怒るから…」「子供が熱出したから…」「週末は家族サービスで…」と申し訳なさそうに、残念そうに去る人々をよく見てたから、「家族持ちは家庭に縛られて大変だなあ」と思ったりすることがあった。そんな自分は、二言目には「仕事があって行けないや」の連発。よっぽど私のほうが仕事にがんじがらめだったよね!って気づけたのはよかった。といいつつ、多少縛られているのが心地良かったりもするのだけど(笑)

いずれにしても、「幸せ」と言われて思い浮かぶ図が、昔と大きく変わってきた今日この頃なのでした。ちゃんちゃん

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