蓮行流業績道場#4 トヨタ財団広報誌「JOINT」第27号寄稿文

2018/3/9の更新でも紹介しましたが、蓮行はトヨタ財団より2016年に2カ年プロジェクトで、「地域社会における多世代共創型演劇ワークショップによる効果の総合的・定量的評価」という研究課題の採択を受けています。

それに関連して、トヨタ財団の広報誌「JOINT」に「地域におけるアートの役割」というテーマで寄稿する機会をいただきました。
そして、実を申しますと、2000〜2200字で、と指定されたのに何故か変に調子が出てしまい、初稿は3300字も書いてしまいました。

最終的に、先方よりのご指定に収まった原稿は トヨタ財団のHP にpdfで公開されていますが、紙面の都合上カットされた部分もお蔵入りするには惜しいので、その3300字ある初稿をNOTEにアップすることとしました。

お時間ございましたらどうぞ。


アート×地域×大学が社会に新たな価値を創り出す

蓮行(劇団衛星/大阪大学)

 今回「アートが拓く地域の可能性」というテーマを頂いていますが、それはある地域(この稿では非首都圏という意味合いで使用します)にアートを投入する/関わらせることで地域の価値が上がるという期待に基づいたものだと考えられます。地域の価値というのは観光振興や農産物・工業製品などの生産の増大、住みやすさなど、複雑かつ多様な要素を含んでいます。

 しかし、「アートと地域」の掛け合わせには、そもそも非常に大きな困難が存在します。まず大きいのは、首都圏と非首都圏の大きな文化資源の格差です。演劇も音楽も美術もファッションも、およそ芸術と呼べるもの全般の資源(ハコや情報、担い手など)が、首都圏に過度に集中している、そして他地域には薄い・存在しないという現状があります。

 さらに、アートというものは、「体験してみなければわからない」という性質があります。つまり「良さを説明する」ことが非常に難しいのです。体験して良さに気付けば、大きな効果をもたらしますが、「素晴らしい」と感じるかどうかは、センスや子ども時代からの育成環境なども関係するので、みんながみんな「素晴らしい」と感じるわけではありません。そして、アーティスト本人や「素晴らしい」と感じる人と、「良さがわからない」あるいは「わかろうとしない」人とのギャップは埋めることが非常に困難です。

 この2つの問題を総合すると、「首都圏以外の文化資源が薄い」上に「アートは体験しなければわからない」ので、アートに触れる機会の多い首都圏は「アート需要」をバックにさらに文化資源が集中し、逆に地域ではより薄くなるという格差の拡大が起こります。

 この格差の拡大に対し、「大学」が機能するのではないかと私は考えており、この10年ほど、「芸術家と大学と地域」の関わりを重視した活動を続けています。

 平成29年度の文科省のデータによると日本には780校の大学があり、都道府県別では一番多い東京が138校、次いで大阪が55校、一番少ない島根と佐賀が2校となっています。このように首都圏偏重ではありますが、国立大学は各県に一つは設置されており、大学は全都道府県に「一応あるにはある」インフラだと言えます。そして、文部科学省がCOC構想(地(知)の拠点大学による地方創生推進事業)を打ち出すなど、最近は地域貢献が求められています。つまり、現代の日本の大学は地域の可能性を拓く主体として大きく期待されていると言えます。

 「体験してみなければわからない」というアートの性質を克服するためには、「体験していなくとも、価値を納得してもらう」という方法があります。つまり、「アートがもたらす地域への良きインパクト」を、データや理論で「科学的に立証」できれば、自治体は劇場を建てるかもしれませんし、学校は演劇的手法を授業に取り入れるかもしれません。住民も積極的に支持したり参加したりしてくれるかもしれません。そんな「理論やデータ」を整えるのが、研究の府たる「大学」ということです。

 一方で、「科学」の弊害やリスクもあります。科学をどう定義するかには諸説ありますが、基本的には「分解・分類」と「因果関係の解明」だと私は考えます。たしかに、科学的方法により人類は多くのものを発明(機械や薬品だけでなく、貨幣や法制度なども含め)し、発展を遂げてきました。しかし、科学には限界があります。因果関係がはっきりしない現象はあまりにも多いですし、科学史を紐解いても、それまで科学的に正しいとされていたことが覆されるパラダイム・シフトは何度も起きてきました。その限界を意識せず、科学の機能を過信し、ある現象には一つの原因があるとしてそれを特定しようとする思考———私はこれを「単純科学主義」と呼んでいます———が過剰に定着してしまった。これが科学の弊害だったと私は考えています。20世紀は単純科学主義で進んできた時代であり、現代はその弊害/負債が積み上がっている時代です。

 単純科学主義は、ある課題には一つの原因があると考え、課題解決のためにその原因の克服を単一の目的とする「単一目的主義」に繋がります。この稿では「単純科学主義と単一目的主義」を略して「単単主義」と呼ぶことにします。これを地域活性化に置き換えると、若者が外に流出することが問題である、観光資源がないことが問題である、GDPが低いことが問題であるなど、ひとつひとつ原因を見つけては単単主義的に解消しようとし、結果的にトータルでは事態を悪化させた例が多々あります。また、「科学的に価値が示されなければ、やらない」ということにもつながります。そして、これも大事なことですが、これまでの大学は、単単主義の「推進役」だった面があります。

 ここでようやくアートの話に戻ります。アートは、科学よりも歴史が古く、単単主義とは正反対に「複雑なものを複雑なまま表現する」ものです。現代の科学では行き詰まりを見せている事案にアートという「説明のつかないもの」を投入することで、単純科学主義的な因果律では説明できない効果が生じるのではないか、というのが私の仮説であり、すでに各地での実践において、成果が示されつつあります。

 いま私たちがトヨタ財団の助成を受けて取り組んでいるプロジェクト「地域社会における多世代共創型演劇ワークショップによる効果の総合的・定量的評価」は、「地域で子どもから高齢者までの多世代が参加する演劇ワークショップを実施すると、『何かいいこと』があるのではないか?」という漠然とした期待を起点としています。既に二ヶ所(京都と福井)で社会実験をしましたが、参加した子どもから「楽しかった」、おじいちゃん・おばあちゃんから「子どもや若いひとと交流できることが、まず嬉しい」、介護職員から「利用者さんのあんな表情は初めて。小さい子がいると“しっかりしなきゃ”と思うのかな」など、様々な声をいただきました。まず「実践」として相当いい内容になったと自負しています。

 「当事者だから、そう思うだけだろう」という声が聞こえてきそうですが、全くその通りです。今回のプロジェクトでは、「実践者の思い込み」を超えた客観性を単単主義に陥ることなく示すために、医者、経済学者、プロデューサー、演出家、心理学者などバラバラの専門性を持った専門家達と、様々な地域で独自の活動を続ける実践者でチームを構成し、研究に当たっています。まずは、①子どもの心理的発達度、②介護従事者の介護負担、③高齢者の健康状態、④当該地域のソーシャルキャピタル蓄積度の4観点に着目していますが、各々の専門性から異なる知見を持ち寄り、議論を重ねることで、新たな知見や観点も生まれつつあります。

 私は、地域に存在する複雑な課題を複雑なまま扱い、複数の目的を持って取り組む、言わば「複複主義」のスタンスです。今回のプロジェクトも私の理念に基づき、大学に存在する様々な専門領域の研究者と、多様な実践者のチームで共同研究に当たることを提案し、採択を受けました。

 かつては単単主義の推進役であった大学ですが、「アートを地域に投入する」ことの効果を増大させる主体となれるのも、また大学なのです。大学の研究力、教育力、ブランド力、人を集わせる機能を使い、とかく独りよがりになりがちだったり、孤立しがちなアーティストを、地域でうまく「機能」させられると考えています。

 読者の皆さんにも、各地の大学への様々なかたちでのアクセス、および大学から地域への様々なかたちでのアウトリーチを促すようにしていただきたいと願っています。

 そして、もし(ずいぶん少なくなったと思いますが)単単主義にどっぷりとつかり机上の空論を吐いてふんぞり返っている学者先生がいたならば、あの手この手で現場に引っぱり出し、ともにアート活動に興じるなどしてフラットなパートナーシップを築いていただきたいと思っています。国公立大はもちろん私立大も相当な額の血税が投入されていますので、大学は真の意味で社会の役に立たなければいけません。アートを地域に投入する際、大学を絡めることでその可能性は大きく増大するという私の考えを述べさせていただきました。

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