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西友にいった。「西友でおかいもの」という高校時代の友人のアドレスをなぜか思い出し、ついでに、というか当然のようにその友人のことを思い出しながら、西友に入ろうとした。その友人は西友が駅前にある中央線沿線に住んでいた。高校時代からの友人で、高校時代は二人きりでしゃべったり、二人きりでどこかへ向かったりしたことはないけれど、仲のいいと思われる集団を共有していた理由で、お互いに仲がいいと思っていることだけは共有しているような関係だった。仲がいいという定義が、もしかりにあったとしたら、そのそれぞれの定義が微妙に食い違っていて、その食い違いによって関係が継続しているような関係だった。僕は彼なみに彼に興味はなく、彼も僕なみに僕に興味がなかった。その彼のアドレスが「西友でおかいもの」というもので、もちろんアドレスなので、ローマ字でそのままseiyou-de-okaimonoとかだったと思う。あのアドレスが妙に印象に残っているのは、それが登録をせずに毎度携帯メールに受信をして、登録をすればいいのだけれど、登録をするまでもなく覚えてしまうていどには、メールのやり取りをしていたということだと思う。僕が高校のころは、アドレスを登録するという行為が、アドレスに名前を紐ずけるという行為で、つまり今のように送信者によって名付けられた名前ではなく、受信者によってその命名がゆだねられているころで、もしかしたらあの頃名前を登録せずにアドレスだけで顔と名前を10人くらいは覚えていたと思う。それは僕の特殊能力とか、何かの特徴というわけではなくて、当時の高校生は全国的にアドレスをみると顔と名前ともしかしたらそれにまつわる感情を10人あるいは100人くらいは標準的に浮かべることが珍しくなかったと思う。ガラケーという名前もついていなガラケーをプッシュして、相手が無為に並べたアルファベットの記号から、人格を記号化する手さばきは、ある特定の年代(高校生で日韓ワールドカップをみた世代)の人間に大きな影響を与えているに違いないとか、考えなくもないけれど、その影響が大きければ大きいほど、それは自覚の底に沈殿して、無自覚なものに澱ていき、ときおり、西友を通るときに、西友を見るたびにふと顔を表して、また消える程度の時間と隙間をあたえる。それが何かといえば、別になにでもない。関係ないけど、西友で肉とトマトを買った。肉は豚肉だった。

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