キリシタン史ーアジアでの布教ー

ヨーロッパで広く長く信仰されてきたキリスト教。キリスト教宣教師がどうアジアで布教活動をしたのか等まとめてみました。

大分ー竹田ー

1⃣大分の中でもキリストに関する歴史が深い竹田市。なぜ、竹田はここまでキリスト教の布教が進んだのかを調べました。日本八大布教地の中で、港がないのは竹田と京都のみ。そんなハンディキャップはありながらも、当時の京都は都会であったために布教するには良い場所でした。しかしその一方、竹田は偏狭的でそういったメリットはない土地だったのです。そんな竹田にキリスト教が広まった理由に、調査の結果を通して主に次の三つをご紹介します。

1.大分と長崎を結ぶキリシタンロード

キリシタンロードとはその名の通り、キリスト教徒の道です。キリシタンロードを通じて宣教師は布教活動を行いました。道に迷わないように、道すがらに道しるべを置いたりして、長崎から大分までの長い道のりを宣教師たちは乗り越えていたそうです。道しるべの中でも竹田市だけのある日向塚千十字残欠という道しるべはとても貴重だそう。

2.竹田の長湯温泉

宣教師たちは、竹田市にある長湯温泉がケガや病気に効くという事を知っていました。ヨーロッパには温泉が多くあったため、炭酸水が体に良いことを宣教師たちは分かっていたようです。体を休めたり、長旅での負担を和らげるには最適の場所だったのでしょうか。

3.九重連山の硫黄山

竹田市の九重連山には、硫黄山という山があります。そこでは名前の通り、硫黄成分が産出されるため、藩をあげて硝酸塩鉱物の一つである硝石を作っていました。火薬の原料である硝石はその当時、日本で産出されることはなく、海外の輸入に頼りきりだったため、宣教師にとって日本の中で硝石を作ることができる土地は非常に重要だったと考えられます。そんな竹田では輸入に頼ることなく火薬を作ることが出来るため、宣教師は竹田の地に重きを置いたと考えられるでしょう。

2⃣次に調査を通してのキリシタンに関する遺跡などをいくつかご紹介します。当時の宣教師や信仰者たちは何を思い、何を残したのか遺跡や文献などから、よく見て思いを馳せることが出来ました。

ーサンチャゴの鐘ー

サンチャゴの鐘

国指定重要文化財である17世紀のキリシタンベル。キリスト教禁止令が出された1612年に製造されたこの鐘は、日本に残るキリシタンベルの中で最も美しいと言われています。江戸時代の歴代藩主の中川氏が明治に城を取り壊すまで、リスクを顧みず隠し続けられていたこの鐘を踏まえて考えると、竹田の地は実に「隠しキリシタンの地」と言えるでしょう。

ー聖ヤコブ像ー

サンチャゴの鐘

キリストの12使徒のひとりである聖ヤコブ(サンチャゴ)の像。これはレプリカであるため、10㎏程度だそう。頭の髪の毛の掘り方から、中世の作品であると考えられています。

ーINRI石碑ー

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INRI石碑のINRIはスペイン語の略称で意味は「ユダヤ人の王ナゼレのイエス」です。16世紀半ばに作られたという説が有力であり、ルカスという人物が「自分が死んだら教会を作り、その中央に石の大きな十字架を建て、その十字架の下に埋葬せよ」と言い残したことから、この石碑がその十字架の一部であるとまで断言はできませんが、制作時期も加味すると、この説が有力な説だと言われています。ルカスはキリシタン大名ドン・フランシスコ大友宗麟の重臣である朽綱宗暦、宗策親子のどちらかだと言われています。

ーキリシタン洞窟礼拝堂ー

キリシタン洞窟礼拝堂

竹田の隠しキリシタン史を語る際には外せないこの礼拝堂。凝灰岩をくり抜いたこの洞窟は14世紀のローマの洞窟礼拝堂を彷彿とさせます。キリスト狩りが行われていた中、竹田市の岡藩も例外ではなく厳しい弾圧を受けました。そんな時代を乗り越え、今なお伝え残されているこの礼拝堂はとても貴重な遺跡です。

ーSAtOの文字入り瓦ー

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彫られているSAtOのtの文字だけが小文字なのはキリストの十字架を表していると言われており、深い信仰心を感じることが出来ます。

ー岡藩主中川家の家紋中川クルス入り木箱ー

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この木箱は江戸時代に作られており、天草に昔から遺されていたものです。島原天草一揆には岡藩も参戦しており、その際において帰った可能性もあるそう。一揆軍を鎮圧する側の家紋に十字が入っていることにとても皮肉を感じます。一揆が終わった後も長きにわたってこの木箱が大切に保管されていたことを思うと、岡藩の苦しい気持ちをとても感じることが出来る遺品です。

ー西光寺ー

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西光寺は元々中川家が兵庫にいた時の菩提寺(先祖代々のお墓がある寺)で、初代藩主の中川秀成が西光寺の住職に竹田に移るように頼み、この寺院が建てられました。境内には、中川清秀、秀政のお墓があります。銅像は藤丸警部の像であり、西南戦争で政府軍として活躍し殉職した人物です。

ニックネーム:りり・FullSwing・れんこん

ベトナムーハノイー

 ベトナムのキリスト教―ハノイ の大教会

 ベトナムのキリスト教にはカトリックとプロテスタントがいます。そしてベトナムの人口の約9%が信仰しています。16世紀ごろに初めて北部のNam Dinh省にポルトガルの宣教師が宣教し始めました。そしてフランスの植民地支配の影響を受け、ベトナムにキリスト教が広まりました。そのためベトナムのカトリック教は、ベトナム全国で信仰されていますが、特に南部地域に多くいます。また、これらの宣教師は全員、ラテン文字を使用している国から来た博士号を持っているため、象形文字を使用している国に来たら、宣教が困難になりました。そのため、彼らは知識人としてすぐに母国語が学べました。特にフランス人の宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが宣教を開始する頃ベトナムは転機を迎えることになりました。それまで中国の漢字を使っていたベトナム語の表記が、アレクサンドルにより現在のアルファベット表記になったのです。その後キリスト教は弾圧されるようになりますが、19世紀後半になってフランスによる植民地支配が始まると、北部を中心に再びキリスト教の信者の数が増え始めます。

1886年には有名なハノイ大教会が建設されました。

ハノイ大教会 

 ハノイ大教会は、19世紀後半のゴシック・リバイバル様式(ネオゴシック様式)の大聖堂で、ピュジニエ大司教により1887年に完成しました。かつてフランスの統治下にあったベトナムで布教されました。ハノイ市内にはいくつか教会がありますが、その教会はハノイで最も古い教会です。とても歴史があります。現在、土日のミサの時は教会が開放され、信者でなくても自由に見学できます。

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西洋にある教会と同じような雰囲気 

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イエスを抱いた聖母マリア像 

ニックネーム:trathanh

台湾―台南―

 台湾のキリスト教の歴史は、17 世紀の初め頃に、オランダとスべインの伝道師がそれぞれ台湾の南部と北部に来て、カトリック教とプロテスタント教の布教を行っています。 オランダの場合は、1624 年に台南を占領しました。その時の伝道の対象は漢民族ではなく、平地に住んでいる先住民族でありました。1627 年から牧師は先住民に伝道するため先住民族の生活に入り込んで研究して、言語、文化の記録を残りました。その時も宣教のため、マタイによる福音書を西拉雅(Siraya)語に翻訳しました(西拉雅は原住民族の一つ)。宣教団もまた、台湾最初の学校(神学校)を設立しました。

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(西拉雅語に翻訳した福音書http://www.taiwannation.org.tw/dbsql/efcontent1b.php?id=55)
 一方、北部ではスぺインの宣教団が基隆から淡水に入り、布教伝道の対象は同じ先住民族が主でした。鄭成功によりオランダが撤退する後は、宣教の痕跡は半世紀のうちに大部分が消滅しました。再び宣教活動が始まるのは 19 世紀も半ば、西欧列強による海外進出の格好の拠点として台湾が再び注目された時期です。その時期の台湾はいくつ有名な牧師がいます。1865 年、マックスウェル(James L.Maxwell)牧師が台南で医療伝道活動を始めて、台湾最初の病院を創設しました。 

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(マックスウェル:http://www.tpkch.org.tw/weblink/missionary/Maxwell.htm)


 同じ時期キャンベル(William Campbell)牧師は台湾語の辞書を編集しただけでなく台湾最初の盲人学校を設立しました。バークリ(Thomas Barclay)牧師は台湾神学大学、台湾教会出版部を創設しました。
また、カナダの長老派宣教会から派遣されたマカイ (George Leslie Mackay)牧師は1872年に北部台湾で伝道活動を始めました。その時の牧師たちは西洋医学を台湾社会に導入することで大きな貢献をなしました。例えば、今日の新樓病院がマックスウェルの活動を礎として建てられました。 (新樓病院の前身https://www.cosmiccare.org/Magazine/Detail/cff162fd-9a22-4c18-98b9-49d65d527612)

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 また神学校の他、淡水や台南に中等学校を建てるなど、一般人子弟のための近代教育を施しました。開拓の地域への伝道の三点セットと呼はばれる「教会・学校・病院」が、19 世紀台湾の長老教会の伝道においても典型的な形で登場しているのです。その時期の牧師たちは台湾の医学教育、宗教、言語に大きな影響を与えると言えます。

参考資料:http://www.pct.org.tw/article_church.aspx?strBlockID=B00007&strContentID=C2016010400029&strDesc=Y
http://rportal.lib.ntnu.edu.tw/bitstream/20.500.12235/77276/1/ntnulib_ja_B0304_0010_109.pdf

ニックネーム:ウー

この授業を通しての差別の対処への考察

  Most people would probably say that discrimination is bad. However, they probably do it, whether they realize it, or not. Why people discriminate? Because it’s just funny? Because it’s the right of human? I’m sure that discrimination will exist forever no matter how you hate it.

 I sometimes feel uncomfortable about the attitude of American people toward discrimination against Asian people. They pay no attention to it even though they’re zealously interested in discrimination against Black people. I don’t think that they’re racists and I love The USA basically, but the American media is focusing only on BLM even now and many American people look down on Asian people in the back of their mind. I laced into them, however, I can’t assert I am fair and nice. I do have prejudice, I do talk about someone behind their back telling you I don’t like discrimination. So…what should I do? Should I become a priest? Or should I be born again? I think what I should do is just putting myself in someone else’s shoes, it’s easier said than done though.


  I’ve got to know one important thing through this class. It’s reducing discrimination may be more important thing than eliminating it. Some people never ever change their mind, and some people continue to pretend to be nice and innocent like me. I mean you can’t change others. In other words, you can change yourself. If you want to make the world a better place, try being fair to everyone regardless of national origin, gender, appearance, creed etc. You have to know a lot of things and, moreover, you must understand and love yourself for that.
 

ニックネーム:れんこん

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