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なぜ少年漫画の主人公に親はいないのか

 『ワンピース』の主要キャラには親がいない。いや、サンジのように後々出てくる場合もあるが、育てられてはいない。誰もが少年期には親を喪失している。

 『ハンター×ハンター』では、ゴンには明確に親は存在しているが、やはり育てられていない。キルアは教育されているが、虐待的である。

 少年漫画の殆どの主人公や主要登場人物には、まともに少年期を育ててくれる親がいないのだ。

 少年漫画では、主人公は少年(から青年)であり、彼らの冒険(非日常)を描く。自己決定権、勇敢さ、自由意志がなければ物語にならない。もしまともな親という保護者がいると、保護の力によって少年の自律性が阻害されてしまう。物語の醍醐味は、主人公が非日常に遭遇した後に、自由意志で様々な選択をするところにある。自由意志がなければ話は始まらない。

 ところで、ファンタジーなら親がいないシチュエーションは割と自然に構築できる。海賊が跋扈する世界、念能力で戦う世界なら、親が死んでいても、育児放棄していても、違和感はない。
 『ベルセルク』のガッツは、木の枝から首をくくられて死んでいる母親の骸から生れ落ちたが、100年戦争中の中世ヨーロッパ風世界なので変ではない。

 難しいのは、現代を舞台にした場合だ。
 現代日本で、親がいないという状況は、それだけで非常に強い意味合いを持ってしまう。もし安易に親がいない設定にすると、引き立たせたいキャラクターの背景に、ショッキングピンクの全然関係ない虫が描かれたイラストのようになってしまう。

 ではどうやって自然に親の不在を演出すればいいのだろうか。

 穏当な手法としては、交通事故による親との死別だが、それもかなり珍しい出来事なので、読者・視聴者はそこに無意識的に注目してしまう。注目の的となるので、生半可な描写では粗が目立ってしまう。生半可な取材、資料集めでは済まない。
 上手く親との死別を説明できたとしても、子供だけで生きることは現代日本では許容されていないので、里親、施設などをしっかり描かなければ不自然であるが、記号的に「俺は、施設で育った」とか「私は親戚の家をたらいまわしにされた」などとすると子供だましの悲劇設定になってしまう。しかも、結局のところそこには保護(管理)の力が厳然と存在しているので、自律力が発揮できない。「俺は海賊王になる」と言って海に飛び出せない。例えば、天涯孤独で学校にいかず、バイトしている15歳を主人公にすると、設定がガバガバ過ぎてしまう。「15歳はバイトで雇ってくれない」「家賃は?」「警察、行政に保護される」などなど、物語以前に、読者・視聴者が気になってしまうポイントが無駄に発生してしまう。
 ヤンキーものが安っぽくなる原因は、若者達が喧嘩に明け暮れているいるのが不自然だからだ。「警察が存在しない世界線の日本?」「生活の為のお金は誰が稼いでいるの? 喧嘩の合間にバイトしてるだけじゃ無理だろう。親からもらってるのだったら、全然かっこよくないが…」とか思ってしまう。
 というわけで、現代日本を舞台にすると、親の不在を描く難易度は高くなる。
 ともすれば少年の主人公は、保護者の抑圧との対立というドロドロした狭い物語に収斂してしまいそうになる。

 その停滞を避けるためには、保護者からの抑圧に対して主人公はあまり煩悶してはならない。そこは、軽く飛び越えて、冒険に出なければならない。保護者による抑圧に心が囚われているのは、逆説的には、その保護に対する依存であり、自律性、自由意志、勇敢さとは真逆な心理だからだ。

『ハリーポッター』は現代イギリスが舞台だが、虐待家庭を丁寧に描きつつ、ホグワーツというファンタジー世界にスライドさせるのが上手い。
 そして虐待家庭育ちだからこそ、ハリーの勇敢さに説得力が生まれる。家庭がないというのは、少年から保護に対する甘えを取り払い、自律を与えるからだ。また、もしハリーが育ての親ダドリーへの怨恨に拘泥していたら、彼の勇敢さはありえなかっただろう。親からの虐待と、それと決別する淡泊な心がセットになって、初めて勇敢で自由な主人公は生まれるのだ。

 ところで、死別、虐待はかなり多様されているが、いっそのこと主人公をサイコパス気味にする手法もある。サイコパスであるならば、まともな親のもとで育っても、異様な勇敢さ、決断力があってもおかしくはないというわけだ。『デスノート』の夜神月や『ブルーロック』の潔世一などがその部類に入るだろう。

 あるいは『天気の子』のように逃避行にするパターンもある。主人公の帆高は、家出をする。なので、いずれは息詰まる運命にある。現代の管理社会において行方不明少年がいつまでも自由でいられないからだ。期限付きだが、保護の籠の外で、少年は自由意志を持って、勇敢に選択をする機会を得る。

 話が少し逸れるが、ハリウッド映画やアメリカのドラマだと、父親が主人公であることが多い。大人の男ならば、自由が利くからだ。そして大抵、息子、娘のために奮闘する。『ウォーキングデッド』『ブレイキング・バッド』では、父親が責任を果たそうとする。責任は自由な者にしか課されない。守るべき者に対して責任を持つというのは、自律力があることを暗に示す。
 翻って、日本のアニメ、漫画では、父親が主人公になることは少ない。対象が少年と青年だからだろう。
 だとしても主人公にはやはり、責任を持たせたいところである。しかしティーンエージャーに息子、娘はいない。そこで、やたらと妹という存在が使用されることになる。
『鬼滅の刃』『反逆のルルーシュ』『甲鉄城のカバネリ』『Angel Beats!』『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』…
 と枚挙にいとまがないが、つまり
 妹=息子・娘
 なのである。保護すべき対象を持つ(持っていた)ということが、責任ある人物の証明になり、責任があるということで、自律力、自己決定権を有するキャラクター像になるのだ。

 現代日本を舞台にした少年の物語を描くうえで、まともな親の不在をどう処理するか、という点は非常に重要に思える。

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