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「推し」という言葉が気持ち悪い

「推し活」などは市民権を得て、それをテーマにした『推し、燃ゆ』(宇佐美りん)は芥川賞を受賞したほどだ。

 それにしても、「推し」という言葉に気持ち悪さを感じる。なぜだろう。

 そもそも私は、芸能人やアイドルが嫌いである。彼らに熱中しているファンも同じくらい嫌悪の対象だ。
 社会を堕落させる罪の共犯関係にある、アイドルとファン。是正されるべき存在だ。

 美貌というギフト(贈り物)を生まれた時から天より与えられているのに、それを使ってさらに経済的なギフトまで貰おうとするのは道義的に許されない。その悪行の片輪はファンであり、推し活なるものだ。

 アイドル活動だろうと、最近物議を醸しているグラビアだろうと、やりたい人はやればいい。
 だがそれによって平均的な労働よりも多額の儲けを得るのは禁止されるべきだろう。

 例えば、若くて可愛い女が水着になって写真を売る方が、プログラマーとして日々働いている女より稼ぎがいい世の中は正しいだろうか。
 これは社会が、女はプログラミングをするより若いうちにエロい恰好をした方が価値があると言っているようなものだ。
 エロな露出をしたい女の表現の自由を奪ってはいけないが、エロな露出による不当な金銭的利益の獲得は、阻止せねばならない。
 俳優、女優、アイドル、スポーツ選手などにも言える。なぜ、演劇、歌、ダンス、スポーツをしているだけで、通常の労働をしている者よりも多額の金銭を貰えるのか。
 職業に本当に貴賤がないのならば、どんな職に関わらず、労働時間のみで給料を算出すべきだ。
 それは暴論かもしれないが、少なくとも、現世界の経済力の差ほど、人間に差があるとは思えない。(年収が三倍高い人は、本当に三倍も能力に差があるのだろうか? 同じ種の生物において、三倍の能力値の差はあり得るのか?)

 貰う方が己の能力を過信すると同時に、与える方もまた信奉者となって、相手を過大評価する。それがアイドルとファンの罪だ。

 しかし、ファンはなぜ「推し活」という己が損をし、かつ世を腐敗させる行為に身を投じるのだろうか。

 これは消費社会の隆盛と関係がある。

 現代日本はひたすらに消費社会を突き進んでいる。かつては違った。第一次産業、第二次産業が主だった頃は、庶民は生産活動をしており、消費は主たる活動ではなかった。
 しかし第三次産業化が進み、オフィスのホワイトカラーが国民の多勢になると、人々の活動から生産は消え、稼いだ金で消費することが人生そのものを支配するようになった。
「うちの畑ではこういうものが採れます」
 から
「うちでは最近こういうものを買いました」
 がステータスになったのだ。

 消費社会の台頭によって、何を生産しているかではなく、何を消費しているかが人々のアイデンティティになったのだ。

「推し活」とはまさに消費でしかアイデンティティを確かめられなくなった虚しい現代人の挙動なのだ。

「私、これ、好き」
「俺、このサッカーチームのファンなんだ」
「顔がいい」
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 こんな風に言うことでしか、自分らしさを確立できないのだ。




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