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このnoteは下記の動画をご覧になった方に向けたものです。単体で読んでも意味が分からないかと思いますのでご注意ください。

顔出し動画の3本目は幼女戦記の主人公、ターニャを題材にしたものでした。

彼女(?)が魅力的であるのは疑いようがないのですが、作者のカルロ・ゼン先生が用意した設定が明かされてから色々と思うところがあり、自分の思考を整理しつつ、合理性の限界について紹介するつもりで作成しました。


「これが面白いんだ、これを食え!」原作者カルロ・ゼンが語る「幼女戦記」(前編)

しかし撮影トークに注意を取られているせいか、一部の視聴者の方に誤解を与えるような言葉足らずの内容となってしまい、頂いた本気のコメントに本気でレスのやり取りをしました。

補足としてはそのレスを見てもらえば問題ないのですが、頂いたコメントに埋もれてしまっているのでここで特にご覧になっていただきたいレスを紹介します。

多分、このやり取りをご覧になっていただけば、モヤモヤが晴れるのではないでしょうか。

ネオリベラリズムと自己責任論は違うでしょ
自己責任論は「勝手なことをする権利を行使した結果の責任は自分で取れ」でしょう?
つまり誰も助けないじゃなくて勝手なことした人は助けないですよ
そこの飛躍はどうかと思うな

コメントありがとうございます!自己責任という言葉にグラデーションがあるのは承知していますが、私が考えるところの自己責任は佐藤優さんの言説が一番近いものです。

自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ

勝手なことをした人は助けない、というのはまさに

「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」

であり、雇用であれば、非正規になるのを選んだ人が後からやっぱり就職しておけばよかった・・・的な意味合いになるかと思います(そうですよね)。

しかしネオリベ的な文脈の自己責任とは、権力を持つ人たちが一方的に作り上げたアンフェアな状況で発生した問題を弱者に転嫁するための屁理屈だと思われます。

本当に責任があるのは、その枠組みを作った人であり「自己責任」を振りかざす事で問題解決をしなくて良くなるわけです。

引き続き雇用に絞りますね。

そもそも氷河期世代の身としては、新卒採用が絞られたなど様々な状況があったわけですが、まさにこの文脈で様々なハンディを負い、今でも「おまえら自身のせい」と断じられ続けています。

スキルが身につかなかったのはきちんとした職場に就職できなかった自己責任
就職できなかったのはいい大学に行けなかった自己責任
ブラック企業を選んだのは見る目がないあなたの自己責任・・・etc

社会のリソースは有限です。誰かが選ばれればあぶれる人もいます。パイ自体が縮小している時にその責任をあぶれた人だけに帰属させるのは果たしてフェアでしょうか。

おそらくコロナ世代は新規採用が絞られるので、自己責任論を振りかざせば氷河期世代の二の舞になると思われます。

このようにネオリベ的文脈と自己責任論は明らかにリンクしています。自己責任という言葉がいつから喧伝されるようになったのか定かではありませんが、明らかに別物とはいいがたいでしょう。

長文レスになりましたが、Funahky さんが疑念を抱いたのも私の言葉が足りなかったことが原因です。

今後注意するなり補足記事を書くなどして改善致しますのでどうぞよろしくお願い致します。

@レトロ 丁寧なレスありがとうございます
とてもうれしいです
これは私のうがった見方だったようです
自分は政治性向が左→右→リバタリアン→リアルポリティクス(やや左)と変遷したして行った。
よく言って変人、悪く言ってふわふわした奇人なためどうにもこうにも
「自己責任とはもっとマッチョなもの」
という思い込みがあったようです(苦笑

うーん、、、1日2回失敗したとあるがその流れを読むとわかるが
人事として相手の〜〜その判断をしたのもするように命じたのも元の彼ではなく組織もしくは上司です
元の彼は「対価が支払われている限り、嫌なリストラの仕事もきっちりする」と発言しており
彼が望んでマウント取ったわけでもリストラの対象を落としたわけでもなく更に構成プログラムを事前通告もしてます
これをシカゴ学派だからのミスと断じるのならそもそも組織が回りません
また彼はシカゴ学派だからマウント取って全知全能の神を否定したわけでも、人が全情報を得られると断じてもいません
彼は前提としての情報集めもせず、通告やアドバイスを無視した行動をしたものを「前提条件も揃えない愚か者」と断じており
またそんな者が多くいるから情報を集めて行動するだけの自分程度の天才でも秀才でもない自分みたいな者でもエリートになれると自虐してます
神の否定については「諸々を全知できる立場にありながらソレを用いないモノが全能の神であるはずがない」と言う理屈であり
現れた彼曰く存在Xをはじめから超常の存在であることを認めていています
あの発言は神へのマウント取りではなく死を受け入れたものの死を前にした愚痴のようなものですよ?
自分に置き換えてみてください、組織の中で命じられたことを法の中で行ない、なにも悪くないのに死に行く時に神を名乗る存在が現れて
神「これだから信仰心のないものは困る」、、、、いやそんなもん犯行起こしたやつに言えって感じじゃないですか?
シカゴ学派自体は感情すら数値化できるとか言い出す無茶な人たちなので正しいとは言いたくもないですが
彼はシカゴ学派であるがゆえにシグナリング理論の信奉者ですよ
情報格差を埋めるためにコネの生成、部下への配慮、情の使用にはむしろ積極的です
事故の生存や組織の優先、命令系統に抵触しない限り作中の行動は甘いものが多いです、(逆にこれらにかかわるとかなり厳しいです)
まぁ合理的に理性を優先するための情報格差をなくすために情を使う、、、というのは個人的には友達にはほしくないですが(苦笑


動画をご覧になっていただき、しかもコメントありがとうございます!

まずお伝えしたいのは、シカゴ学派を叩きたいわけでは無くて、ターニャという存在の業について紹介したかったのがこの動画です。

Funahkyさんはエリートサラリーマンさんの振舞い方には問題がなく、理不尽な状況だったと考えているものと思います。

たしかに組織のルールに従ってリストラの基準や手順を堅守したにも関わらず逆恨みで殺されて、しかも超自然の存在に対して「死を受け入れたものの死を前にした愚痴のようなもの」を言った結果、幼女転生してしまった、という流れの理解は同意します。

ただ私が問題としているのは、合理性を重視するあまり情を軽視した事で逆恨みされたことがひとつ。しかも本人は自分が合理的だと考えているにもかかわらず力関係が良く分からない相手に礼を尽くさなかったことが二つめ。

これらはエリートサラリーマンさんが望んでいない事が起きてしまったという点で明らかに失敗ですよね。

しかもエリートサラリーマンさんの自己責任によって発生しました。

リストラの仕事を命じたのは組織ですが、実行したのは本人です。もっとうまい言い方をすれば恨みを買う事もなかったでしょう。

会社員時代、私(レトロ)は半年ほど人事部にいましたが馘首は簡単ではありません。機械的に手続きに従うだけで上手く行くはずがない。アメリカ的な職業流動性がない日本であんなやり方をしたら恨まれるに決まっています。

そしてよくわからない相手に「死を前にした愚痴のようなもの」を言ってしまったのもエリートサラリーマンさんです。神かどうかは関係ありません。よくわからないものは敬して遠ざけるのが大人の処世術というものです。

つまり一言で言ってしまえば、彼はウカツなんです。

そのウカツさが何処から来ているかと言えば、それは自分は間違っていない、正しいことをしているという「おごり」にあるのです。これは社会通念に従っていればハッピーでいられるという思考停止が更なる根源にあります。

エリートサラリーマンさんが自分が考えるところの合理性の信奉者でも世間はそうではない。

しかもその合理性を図る尺度がエリートサラリーマンさん自身にあるので、理解を超えたものへの畏敬の念が欠けているわけです。その上、自己評価以上に結構感情的ですし。

古代インド哲学の大家、ヤージャニャヴァルキャも「刀はそれ自身を切れない」と言っていますし、まさに合理性の徒であるシカゴ学派の擬人化であるターニャも自分自身を把握しきれていない。

だから「ターニャ」はもっともっと追い詰められて、人が「合理性」を必要とするようになった根源がどこにあるのか知るべきなのだと思いますね。

作品テーマがこの方向に向かうとは思えませんが、私が注目するポイントではあります。


Funahkyさんには重ねてお礼申し上げます。本気でレス出来て楽しかったです!

@レトロ こちらにも丁寧なレスありがとうございます
そして文才なく何度も書き直したために混乱させてしまったことをお詫びします
 さてターニャが彼だった時に自分は天才でも秀才でもないと認識してます
その上でシカゴ学派的思考と同じく同系のミクロ経済学のシグナリング理論に基づき行動しているわけですが
 彼女はシグナリング、スクリーニングにはほぼほぼ失敗してます(苦笑
 入力情報出力情報にバイアスがかかってるんですからシカゴ学派的思考の結果が思う通りなるわけがない
 そこが勘違い系主人公としてのターニャの魅力であるしこの部分の表現は漫画版が優れていると思っています
 その上で本当に追い詰められた時に彼女がどう自身を断じるか行動するかは自分も興味深い
 シカゴ学派的合理主義を否定するのか?シグナリングに失敗し使いこなせなかった自身を嗤うのか?信仰に目覚めるのか?それとも、、

この作品アルカディアで書かれている時の掲示板での「せっかくいい作品だから”幼女”戦記なんていうふざけた名前じゃない方がいい」という論争がありまして、その論争に敗れて読むのをやめた、、、らそのままの名前で後年書籍化で大成したという非常に思い入れと敗北感の強い作品だったためコメントが熱くなってしまったようです
 勝手ながらあの時の感想掲示板のようで楽しかったです

9;30あたり、『合理的な判断』というと混乱しやすくて『正しい合理的な判断』といったほうがわかりやすくなると思います。
『判断における感情』も『好き嫌い』というよりも『利益を得たい・損をしたくないという欲求』の方が重要で、慢より単なる割愛だと思います(帝国の失敗も明らかに渇愛です)。
ハンカチのシーンも史劇的演出で、テーマ演出のための演技とみなすとシカゴ学派を基調とする作品構造論的に崩れるのではないでしょうか?
これを慢と見えるのは、解釈者としての慢なんではないかなとちょっと思います。
作品を論じる場合も正しい判断というのは、情報の完全性と感情の壁が存在してしまいます。だから面白いのですが。


助言、ありがとうございます!

ハンカチのシーンも史劇的演出で、テーマ演出のための演技

幼女戦記の場合、原作小説とアニメ、漫画でかなりターニャの表現にグラデーションがあり、ぶっちゃけ小説はやや記号的ですが、アニメの場合はかなり女の子っぽい演出がなされていると感じています。

だからアニメの場合、作者のキャライメージを超えていると思うので、一直線にターニャのキャラとして論じるのは私の言葉足らずでした。

まとめ

私が幼女戦記に触れる上で必ず押さえておかなければいけなかったポイントは下記の通り。

作者が生み出したターニャは「シカゴ学派の擬人化」であり、小説は非常に記号的なキャラクターとなっていて幼女要素が薄い、というかほぼ描写されない。国家の趨勢に紙幅を割いています。

しかし漫画家、アニメ化されたことで外見から生じる作劇上の改変がなされて、メチャクチャ強くて傲慢だけど少し抜けている可愛げ(というか隙)のあるキャラクターになりました。

小説のターニャと漫画のターニャ、アニメのターニャはコンセプトは同じだけど描写の情報量(東條チカ先生のデザインと悠木碧さんの演技)がメチャクチャ増えた事で原作小説のターニャと別人度が高まったのです。

しかもアニメ化以後、原作のターニャがアニメのターニャのイメージに影響されている節があります。

ここに触れていないため、シカゴ学派の擬人化としてのターニャについて話しているシーンとアニメ描写のターニャが混同して論じられる原因になってしまいました。

だからターニャが合理性の信奉者であるという設定に対して、彼女は本当は情に厚いのだ、お前は分かっていないという批判が生じたワケです。

そして合理性には限界があるので、無邪気に追求すれば必ず現実とぶち当たって失敗するという実務上の問題点についてはロジカルの欠点を指摘するだけでなく、ターニャ自身が自身の理性や合理性を過大評価している点に触れるべきでした。

実のところ、ターニャは自己評価を誤っており、かなりの激情家でありウカツで隙があるのです(そこが魅力の源でもあるw)。またコメントで補足頂いたように自身の外見を無視した発言により、上司や同僚から大いなる誤解を招いているのに気づいていません。

これらの点を網羅したプレゼン動画が最初から作れていれば問題なかったのですが、結果はこの通り・・・・とまあ、こんな具合に幼女戦記動画はプレゼン動画が不十分だとどうなるか、という良い学びになりました。

モヤモヤさせてしまった方にはお詫びすると共に、欠点を改善しより良い動画作成に生かしたいと思います。

それでは、ここまでご覧になっていただきありがとうございました。

次の動画でお会いしましょう。

※次の動画はダンジョン飯を題材にしています。7月5日19時に公開となります。

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