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コンパッション(Compassion)のワークショップを受けてみた①利他性が自分と相手にもたらすもの

そうなんです。(何が)
4/1-4/2に名著「Compassion」の著者ジョアン・ハリファックス老師が来日しておりまして、そのワークショップ(⇩⇩)に参加しておりました。

大変稚拙な言葉になってしまうのですが、本当に最★高の体験でした。
去年独立したということ、コーチとして活動していることなどから自分の人生において「自分はどのように在りたいのか」というテーマと日々向き合っているのですが、こんな生き方できたらカッチョイイと自分の価値観に共振するところがありました。

noteは著書のメインテーマに合わせて、全5回に渡って一つずつの言葉の意味を噛み締めながら共有していきたいと思います。今回は初回なので、そもそものCompassionという定義についても触れていきます。

第一章 利他性: 利他性が自分と相手にもたらすもの
第二章 共感 : 共感疲労から真の共感へ
第三章 誠実 : 誠実さなくして、自由はない
第四章 敬意 : より多くの様々な人に敬意を持つことの可能性
第五章 関与 : 賢明な関与の仕方が燃え尽きを防ぐ

Compassion(コンパッション)

コンパッションとは

そもそもコンパッションとはどのような意味なのでしょうか?辞典などで調べてみると「思いやり」「慈悲の心」などが出てくると思いますが、著書の中では以下のように言及しています。

「コンパッションとは、自分であろうと他者であろうと、その悩みや苦しみを深く理解し、そこから解放されるよう役に立とうとする純粋な思い出ある」と力強く述べました。さらに端的に言えば、自分自身や相手と「共にいる」力であると。そして本当に役立つには、ときには厳しくNoといい、役立たない手助けや助言は控え、時にはただ見守るしかできないことを受け入れることでもある

Compassion(コンパッション)

個人的に好きな部分としては「自分自身」にもフォーカスがあたっているところです。思いやりや慈悲という語彙からは(僕だけかもしれませんが、)自分を犠牲にして相手のために、というニュアンスが強いと思っていましたが、自分自身も含めた上で「共にいる」力なんだなと思いました。

また、コンパッションはその対象に役立つのみならず、実践している本人の免疫力、幸福度、思考力も高めるというリサーチ結果も紹介されており、自己犠牲どころかWin-Winをもたらすもののようです。

一方で、著書の中ではコンパッションを崖のメタファーを使って説明しておりました。崖の縁というのは、相反するものが出会うところだとしております。見晴らしがよくとても眺めの良い場所である一方で、崖から足を滑らせると崖の下に転落をしてしまうような場所です。

著書では、コンパッションは5つの資質:利他性、共感、誠実、敬意、関与からなっているとしていますが、利他性は病的な利他性へと、共感は共感疲労へと、誠実は道徳的苦しみへと、敬意は軽蔑へと、関与は燃え尽きへと化す可能性があるということで相反する要素が出会う5つの崖という表現をしています。

利他性:Altruism

今回は「利他」について深掘りをしていくのですが、「利他」とはどのような意味でしょうか。知らなかったとしても字面から想像できるかもしれませんね。読んで字の如く「他人に利益を与えること」だとされています。

「利他」というのは、京セラの創業者で日本航空の再建にも力を発揮した稲盛和夫さんが経営哲学で大事にしていた要素だと言及されているのですが、僕も会社で使いたいものの、この「利他」という言葉は少し厄介だなと感じました。

誤解を恐れずにいうと「戦争はよくないことだ」「法律は守る必要がある
」に近いレベルの概念だなと思っています。要は日本人であれば教育を受けていく過程で否定できない要素なのではないでしょうか。
だからこそ、経営理念に「利他の精神」を大事にしようと言われても、そりゃそうだということで思考停止になってしまっていると思います。別に反対ではないのですが、多くの人は腹落ちしていないのではないかと思っています。

僕は今回のコンパッションの輪読およびワークショップを通じて、その片鱗を感じることができました。
さて、そんな利他性ですが、コンパッションの中ではどのように扱われているのでしょうか?

利他性とは

利他性について著書の中ではこのように表現されています。

利他性を特徴づけているのは、無私無欲の行動です。感謝や返礼などの外からの報酬も、自尊心の向上や心の健康増進など内なる報酬も期待せずに他者に恩恵をもたらすのが、無私無欲です。純粋に利他的な人は「得る意図の無き」者です。役に立つことをしても、そこから何かを得ることはありません。本質的に無欲なのです。

Compassion(コンパッション)

自己紹介の記事で書いたように打算的な僕には無私無欲というのは、遠く輝いてはいるものの手に入らない一番星のような、そんなものな気がしていました。
皆さんは、どうでしょうか。誰かのためにとった行動は感謝や返礼だけでなく自尊心の向上などの内なる報酬も期待していませんか?

もちろん家族や友人などが困っているときは助けるなどはあるかもしれませんが、利他性は特定の関係性によるものでなく、家族や友人や仲間内などに偏らないともされています。

家族なら、と思っていたので、いよいよ打つ手がなくなってきました。
果たして僕は利他性を手に入れることはできないのでしょうか。

「見た目」が利他的な行為

感謝や返礼を期待した利他性であったとしても、相手にとって良い行動であれば、それは結果として良いのではないか。という考えもありますよね。
僕もそう思ってました。

ただ、この辺りはコーチングする際に強く感じているのですが、バランス感覚が非常に重要だと思っています。感謝や自尊心などの報酬を期待した利他性であった場合、援助しようとしている相手が持つ力を奪い、主体性を取り上げ、気づかないうちに傷つけてしまうこともあるのだということです。
サッカレー・リッチの小説「Mrs.Dymond」(未邦訳)では「魚を分け与えても1時間もすればまた空腹になる。魚の釣り方を教えるのが、親切というものだ」という表現をしています。

病的な利他性

最初は本当に利他の心で取り組んでいたにもかかわらず、いつの間にか「見た目」が利他的な行為となり、さらには病的な利他性になっていく例についても紹介されていました。
病的な利他性の身近な例は、共依存です。共依存状態に陥った人は、自分自身が損害を被るにもかかわらず、他の人の求めに応じることに全力を注ぎ、その過程で、しばしば依存的行動を助長してしまうこともあります。
その結果としては、助けを求めた人の成長機会を奪うばかりでなく、自らも燃え尽きや軽蔑(あんなにしてやったのに)してしまう状態になってしまいます。

では、どのように真の利他性を身につけていったら良いのでしょうか?

利他性に至る考え方

利他性に至る大きな考え方としてその道では超有名なお坊さんティク・ナット・ハンはこのように言っています。

「左手が怪我をしたら、すぐに右手が庇う。右手は庇ってあげています、私のコンパッションによる恩恵をうけてくださいなどとわざわざ言わない。右手はよく承知しているのだ。左手もまた右手なのだと。両者のあいだに区別などない」

Compassion(コンパッション)

おお、分かりやすい!と思いきや、ん?いや、でもでも他人と自分はやっぱり違うでしょと疑問が後を立ちません。

ただ、例えば赤子が椅子から落ちそうになる時というのは考えもせずに手が出ますし、震災で困っている人がいたら何かしたいと思うように、人間には本質的には利他の遺伝子が組み込まれているのだとも感じています。こちらについては著書Compassionでも言及されていましたが僕は「Humankind 希望の歴史」にインスパイアを受けたのでご興味ある方はこちらも参照してください。

いやでも、命に関わる危機的な状況における振る舞いとしての利他性はわかるけども、日頃において、具体的にどうすれば他者に対して利他の心(無私の心)で立ち向かえるのでしょうか。

個人的な解は、ワークショップで実践した瞑想ワークが超しっくりきました。

マインドフルネスも瞑想もまだまだヒヨッコなので、もしかしたら間違って理解しているかもしれませんが、僕が感じたのはシンプルに言うと、
「まずは既に受け取っているものを認知する」でした。

どういうことか。
瞑想ワークでは「なんでも良いので感謝する対象を見つけてください」とガイドを受けました。それは家族でもいいし、仕事仲間でもいいし、机やパソコンなどの無機物でも、植物や動物でもいいということでした。

この感謝するということから入るというのがミソです。
家族ならまだしも、日頃は机に感謝なんてしませんよね。でも感謝をし始めると、間違いなく机のおかげで仕事ができているし、机を作ってくれた人や、僕の目の前に届くまで多くの人の協力があってるんだなということに気づいてきます。
受け取っているのであれば返報性の法則で何かお返しをしたくなるのが人間です。

僕の場合、この与えられている状況に認知ができるようになったことで自然と利他的な行動ができるようにな(りそうだ)るなと感じました。
0の状態から1を与えるというのはライフがすり減っていってしまいますが、すでに1をもらっているなら1を与えることはできるなという考え方です。以下のようなイメージです。

僕の中では、「あー、こいつが利他の正体かも」ということで週に何度かこの瞑想ワークをすることでほんのり優しい気持ちになっています。

もちろん、既にもらっているものを認知という行為も超絶難易度高いです。だって、例えば、親切にするその人からは直接何かをもらっているわけではないと感じてしまうから。
でも、日々感謝をしていき、今の自分は自分1人では生きていけてないということを実感していくと、親切にするその人とは直接的にはつながりがなくても、より大きな観点では繋がっているのかもってなとうっすら思えるようになります。
(この辺りはかなり深遠な世界なのでどこかでゆっくりまとめますね)

立ち戻るべき3つの信条

瞑想ワークだけでは利他性を身につけることは難しいかもしれませんので著書で紹介されていた立ち戻るべき考え方を紹介して締めくくりたいと思います。今自分は崖の上にいるのか崖の下にいるのか分からなくなったら、以下の3つの信条に立ち戻ります。詳しくは是非著書を見ていただきたいので3つの項目だけお伝えします。

「知ったつもりにならない(Not Knowing)」
「ありのままを見届ける(Bearing Witness)」
「慈悲に満ちた行為(Compassionate Action)」

Compassion(コンパッション)

いかがでしたか?最後はもう少し解説を期待したかもしれませんが、皆さんの成長機会を奪うわけにはいきませんので是非ご一読ください。
ちなみにこの経験から会社の規範に「利他性」を入れてます。てへ。

では、次回は「第二章 共感:共感疲労から真の共感へ」を取り上げていきます。

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