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プレKポップ・ノート1:20世紀前半

いま私たちが触れている「K-POP」は、どのような歴史の積み重ねの中で形成されてきたものなのでしょうか?

例えばK-POPといっても「トロット」と呼ばれる音楽は日本の「演歌」とも似ていることから、「これってどういう風に発展してきたんだろう」と気になりつつも、アイドル達の怒涛の「カムバック」の中で調べることもなく終わってしまいがちです。

最近、私はいくつか文献を読みながら、この点について自分なりに「マップ&年表」を頭に作っているところなのですが、せっかくなので、ここでその途中経過の「ノート」をまとめてみたいと思います。

以下は、貴志俊彦さんの『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)と申鉉準さんの『韓国ポップのアルケオロジー』(月曜社)記述にもとづいています。

貴志さんによれば、1930年代、帝国日本およびその統治化にあった朝鮮や台湾では、いくつかの西洋の技術を取り入れた「流行歌」が一つの最盛期を迎えたといいます。当時朝鮮半島にはレコードプレス工場はなく、すべて日本で作られていたといいます。またレコード会社もその大半が日系の資本でした。

そこでは、日本でつくられた流行歌が、朝鮮語に翻訳されてレコードが制作されるという事も多かったようです。また、日本の歌手や楽団がソウルに公演に行くこともしばしばあったようです。

しかし、その一方で、朝鮮においても西洋の作曲技法を学び、当時のジャズにも影響を受けた作編曲家が育ち、朝鮮語で作られヒットした曲が、日本に持ち込まれるというケースもありました。つまり、半島と列島との流行歌をめぐる交流は、必ずしも一方的ではなかったとのことです。

例えば上の孫牧人が作曲し李蘭影の歌った「木浦の涙」には、日本語翻訳版の「別れの舟唄」が存在していますし、同様の経緯をたどった曲が複数あると貴志さんは指摘しています。またこの時期、朝鮮の民謡として有名な「アリラン」が日本でもヒットしている点も興味深いところです。

以上、貴志さんの記述をまとめてみましたが、Youtubeこうした曲を聴いてみると、この辺りの曲が「トロット」という形で現在でもその流れが継承されているのだろうな、と理解できますし、同様に日本ではその後、60年代に「演歌」という形で定型化されていくことになります。

ところで、当時こうした5音階を使った「アジア的」?な曲のほかに、「ジャズソング」と呼ばれる楽曲群も流行しており、朝鮮の作曲家も非常に洒落た曲を書いています。例えば金梅松作編曲の「茶房の青い夢」です。

さて、戦後の朝鮮半島は日帝支配から脱しますが、その後の朝鮮戦争による分断によって、さらなる苦難の道を歩みます。そうしたなか、日帝時代に韓国社会にも広まり、戦後も生み出された流行歌の一部は、「倭色歌謡」と名指されることで、長らく排除や規制の対象となります。なかでも有名なのは100枚を売り上げる大ヒットの直後、朴正煕政権によって発禁処分となった「椿娘」です。

他方、戦前・中からの流れを受けてなのかどうかわかりませんが、戦後(少なくとも南では)レコード会社はあまり力をつけることなく、米軍慰問ショーによってアメリカの演奏および作編曲技術は、政府の干渉下にあるラジオやテレビの電波にのせた「放送歌謡」として大衆へと展開していったようです。以下の韓明淑が歌う「黄色いシャツの男」は、その代表的な曲のひとつです(また、この曲も日本語訳がつけられ日本でも歌われています)。

申さんによれば、前者はおもに農村部で人気を保ち、後者はおもに都市部で人気を保っていたとのことですが、農村部に(倭色とされがちな曲が入った)レコードがどのように流入していったのかなど、もう少しディテールを知りたいところです。

さて、非常におおざっぱに20世紀前半から中葉にかけての韓国のポピュラー音楽について、日本語で読める文献をもとにまとめてみました。もう少し、勉強して理解を深めなければいけないですが、さしあたり私の現時点での理解はこんなところです。

最後に、戦前から戦後への歴史の継承例として、朝鮮戦争で没した作編曲家金梅松と、その妻で歌手の李蘭影の子どもたちで、米国で活躍したキム・シスターズの素晴らしいパフォーマンスを紹介して筆を置くことにします。

す、すばらしい~~~!


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