見出し画像

プレKポップ・ノート4:列島からの音楽流入の波に関する覚書

現時点での私の理解では、20世紀以降の日本列島から朝鮮半島の(西洋音楽をベースとした)音楽的影響の波は、おおざっぱに3つくらいの時期でくくって考えられるように思います(註1)。

第1波:日帝期。日本のレコード会社資本が日本式の制作システムを構築。同時に「ヨナ抜き音階」を伴う2拍子の流行歌の形式が、レコードの流通とともに普及。
第2波:戦後軍事独裁期。公的には倭色が禁止されるも、ラジオやテレビ、あるいは非公式のレコード輸入によって、日本の歌謡曲が聴かれる。同時に、それに影響された楽曲の制作と流通。
第3波:民主化以後。公式に日本文化を解放した現在に至る時期。第1期アイドルブームの時期には一定のJ-POPからの影響が感じられる。

ここで気をつけなければいけないのは、いうまでもなく、(1)20世紀から現在に至るまで、半島も列島もともに、それぞれ欧米からの影響を共に受け続けている状況にあります。そして、これも当然ながら、(2)そうした影響は、韓国(朝鮮)内が従来持っていた文化的社会的枠組みの作用によって、独自の変容を伴っている点です。

上記の3つの時期は、そうした中で列島を経由した音楽的影響の波を、政治体制の変化に即して分節したものと考えてください。以下、それぞれに即してその中身を整理してみたいと思います。

第1波
この時期の朝鮮半島は日帝の統治下にあったため、直接欧米のレコード資本が入った大陸に対して、現地法人化した列島のレコード会社(仕組みは当然欧米由来)が入ることになりました。日本では中山晋平らにより、西洋の和声のシステムに日本の「都節音階」をのせる工夫などが施され、独自の流行歌が生まれており、半島ではこれが独立から現在に至ってひとつのジャンルとして定着しているトロット(あるいはポンチャック)へとつながっています。また音楽制作のシステムとしては、レコード会社の専属作家制などが戦後にも引き継がれたと言われています。

独立後、朝鮮戦争など半島は極めて政治的に不安定な状況となりますが、この時期は倭色をいかに払拭するかという中で、日本からの音楽的な影響はないと考えられますが、日帝時代に定着した流行歌=トロットが作られ聴かれ続けるとともに、南朝鮮(韓国)においては米軍を通じたアメリカからの影響が強く出てくることとなります。


第2波
主に釜山など、テレビやラジオの電波を受信しやすい日本列島に近い都市において、ポピュラーカルチャーが(非公認の形で)受容されていきます。SMエンタのイ・スマン会長がこうした状況下で西城秀樹のファンであったということは有名です。ヒット曲「椿娘」(中山晋平に由来する「ヨナ抜き単調」曲)軍事独裁政権を確立した朴正煕大統領が、倭色禁止を政治的統制に利用しつつ、日本の演歌の大ファンであったという話しもここに含まれてよいと思います。


さらに、オニュのRainy Blueなどのように、多くのK-POPアイドルが、同世代の日本のファンが知らないような昭和末期の80年代歌謡曲(プレJ-POP的な曲の数々)を取り上げる点などは、いかに日本のポピュラー音楽が国民の間に浸透していたかを物語っているでしょう。昭和末期生まれの私などからすると、(実際はどうなのかわかりませんが)Sweetuneなどの楽曲には、そうした日本のプレJPOPからの影響を感じざるをえません(同時代の米POPからの直接の影響とは思いにくい)。


第3波
90年代に入り、倭色禁止の時代からやっと日本文化の解禁へと向かっていきます。2002年のワールドカップ日韓同時開催は、その最終段階の象徴のようなイベントでした。チャン・ギハと顔たちの長谷川陽平さんによれば、すでに日本のコンテンツは事実上入り込んでいたので、文化解禁によって大きな変化はなかったのではないかとのことです。

しかし、ちょうど日本でも昭和から平成、あるいは80年代から90年代への以降の中で、アメリカの影響なども受けながら文化状況は変化してきており、ポピュラー音楽についても、自己総称が「歌謡曲」から「J-POP」へと変わっていき、ある種の質的変化が生じます。

これに対応しながら、これまでとはやや異なる受容のされ方が韓国においても生じていたのではないかと思います。象徴的なのは、少女時代のデビュー曲となった「タシマンナンセゲ」。作者のKENZIEによれば、彼女がバークリーを卒業して韓国に帰国した2000年初頭、J-POPが巷に流れていて、そのころに聞いた宇多田ヒカルなどの影響を受けて作ったと述懐しています。

90年代終わりには、第1次アイドルブームが韓国を席巻するわけですが、当時のS.E.SなどのMVからも、90年代の日本のダンスミュージックからの(ビジュアル面含む)影響を一部で感じます(あくまで印象なので、要検討ではありますが…)。


今JとKの違いを最もよく知っているのは?
個人的に、この1年ほどのK-POPの展開に、J-POP的なものの取り入れを感じることがありますが、それはあくまで第2次アイドルブーム以降、世界的に印象づけられた「K-POPらしさ」のイメージを前提にしたものであり、これまでの一方向的な感じの強い「波」とは異なるように感じます。

つまり、双方向的な影響の与え合いの側面が強くなっていると考えられます。ただしそれは、すでに文化交流などという大仰なものでなく、単にそれぞれにアホのように速い市場の動きに対応するための「差異化」の道具として、互いのコンテンツの要素をその都度に取り込んでいる、という話しなのではないかとも思います。

ある種皮肉なのは、そうしたそれぞれの「らしさ」を感じさせるコンテンツが「コライト」システムに支えられた海外作曲陣によって生み出されていることでしょう。今、日本らしい、韓国らしい、を一番よく知っているのは、北欧をはじめとする欧米のグローバルな(なかでもアジアの市場に活路を見出した)作曲家たちなのかもしれません。

* * *

以上、おおまかな見取り図として、私なりの理解を記してみました。参考文献などを再読したうえで書くべき話しですが、ざっと頭にあるものを書いたので、間違いなどあるかと思います。適宜、修正などしていきたいと思っていますので、ご了承ください。

冒頭でも書きましたが、重要なのは半島が常に列島のみから影響を受けてきた、というわけでは決してないという点です。むしろ、列島も半島も太平洋をこえたあちらの大陸からの影響をそれぞれの地政学的な立ち位置で受けてきたという点がもっとも大きく、これに付随する形で列島からの媒介的な影響が半島にもたらされていた、と見るのが世界史的に正しいのだろうと思います。

この大前提をふまえたうえで、半島ならではの独自の展開が、20世紀においてどのようにしておきてきたのか?これを、素人ながら確認していく作業が、この「プレKポップ・ノート」シリーズの目的というわけです。

なかなか壮大です^^; 


註1:本稿の意図は、日本はこんなに朝鮮半島に影響を与えてるだよねとドヤ顔することにはありません。その逆です。えてして日本にいて韓国のポップスを眺めていると、歴史的事実以上に「かつての日本で見た風景」を幻視してしまうことが多くあり、結果的に「日本が前を行っている」という妄想にとらわれがちになります。そこで、列島から半島への影響の中身を精査することで、そのような(自文化中心主義的な)妄想を「抑制する」ことを、意図して本文を書いているのです。実際、本文で書いているように日本から半島への影響があるのは事実なのですが、戦後に入るとアメリカからの直接の影響も強くなり、それが日本とは異なる「化学反応」を起こして、独自の形に定着している様子が散見されます(MAMAMOOのソウル・ファンクの昇華の仕方などは、その一例)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?