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〔スカーレット〕お人好したちの世界、あるいは毒親の居場所をめぐって

いきなりですが…私、NHK朝ドラ『スカーレット』にはまってしました!

いやー面白い!ドラマって、ひとの人生の機微、ひととひととの関係性を、こんなに繊細に、愛おしく、哀しく、酷く、つらく、明るく、力強く、味わい深く描くことができるんですね。

ドラマってすごい!という今更な感動を、日々味わいながら生きてます笑

というわけで、Kぽを放っておいて、いきなりスカーレットをめぐるあれやこれやの駄文を書き連ねていこうと思います(さーせん)。いろいろメンドクサイので、以下ドラマを見ているという知識前提で書きます(さーせん!)。

さて、何から書こう…そうや!これや!これをかこう!(←フカ先生風に)

ということで、今日は主人公の父「川原常治(じょうじ)」と、それをとりまく「お人好し」たちの世界について考えてみたいと思います。

* * *

このドラマの舞台は戦後復興期から高度成長期を迎えつつある時代の滋賀県の信楽(ときどき大阪)。陶芸のまちとして知られるこのまちは、戦後、全国的な火鉢の生産地として経済的な繁栄をなしました。しかし、高度成長期に入ると、エネルギー源は、化石燃料へシフト。日本津々浦々の里山で育った木でつくられる木炭は行き場を失い、必然的に、各家庭で木炭を燃やすための「火鉢」も行き場を失うのです…

主人公の父川原常治(じょうじ)と妻のマツは、いまでいうところの「毒親」とも呼べるような存在です。夫は酒におぼれては妻や娘に怒鳴り、借金をこさえ、そのしりぬぐいを娘にさせ、妻はそんな父をそっと支えてしまう。もう完全な共依存。児童相談所カモン!主人公喜美子は、そんな父親の「命令」で、中学を卒業した15歳の春、ひとり大阪へ女中奉公へ出され、奉公先でどうにか自分の道をみつけたとたん、今度はウソの電報で呼び戻され、地元信楽の「丸熊陶業」に就職させられます。

マツと常治

この擁護しがたい「酷い毒親」「救いようのないクソおやじ」という難しい役どころを、常治役の北村一樹は、丁寧な脚本、演出に支えられながら、ときにコミカルさを交えつつ、見事に演じています。ドラマがはじまるまえのインタビューで、「どうしましょう…好感度最悪です」と北村さんは語られていましたが、いやはや大変です…でも、北村さん本当にお上手で、役者ってすごいんだなあ、と本当に感激してしまいます。

…擁護しがたい、どう考えたって好感度ゼロ、どころかマイナスな存在のじょうじ(&マツ)…。もうみんな叩いてよし、お前はこのドラマの汚点、不快だ、もう出てくるな、いやむしろ出てけ!

…と、言いたくなります…が…

…んん?…んん~…(←考えこむ喜美子風に)

* * *

…擁護しがたい、どう考えたってお好感度ゼロ、どころかマイナスな存在といえなくもない常治ですが、一方で、このドラマが生み出す人間関係の基礎となる、さらには、このドラマを支える人間観・社会観を担うような、きわめて重要な「機能」を担っているように思います。

ほお…じゅうだいな、きのう、か…そうか(←喜美子の言葉に耳をかたむけるちや子風に)
 
1つ目。常治は、戦時中、戦地で信楽出身の大野忠信という男を助けます。大阪で借金をこさえた常治と家族を、大野とその妻が、温かく、そのあきれるような「お人好し」さで迎え入れるところから、このドラマははじまります。そして、その後大野家は、妻陽子、息子信作の存在とともに、喜美子とその家族を支える親密な「世界」を構成していくのです。

大野

ドラマの基礎となる世界。それは、常治の(具体的になにをしたのかは、確かまだ語られていませんが)、恐らくは自分の命をも投げ出すような「人を助ける」という行為から切り開かれました。このような行為がなければ、主人公を支える関係性…親友である照子と信作との愛らしいわちゃわちゃも、今住んでいるあのお家も(借金取りとか草間さんとか大野の奥さんとかいろんな人が出たり入ったりして、縁側でスイカを食べたりするあの家です)、借金を返しながら生きていくことも、電話をかけることも、へそくりを隠すことも、お米とかお野菜とかスイカを分けてもらうことも、ちょっとおしゃれな洋服を女子連中でわいわいがやがやと調達することも…なにもかも存在しなかったのです。

見返りとかそういうことでなく、大変そうな人がいたら助ける。助けられたから、恩を返す。もういいだろう、ということで返し終わることはなく、返し続ける…さらに…と、こういった行為の連鎖を、私たちは「互恵性」などと呼んだりします。それは、お人好しの作る世界の基本原理といえるものです。

ここではそうした原理で構成される世界を、仮に「お人好したちの世界=社会の底を支える原理」と呼んでおきましょう。

2つ目。常治は、借金でどうにもならないにもかかわらず、お金を調達しにいった大阪で、暴漢に襲われる一人の若者を助け、貧乏で米も買えないような家に連れてかえってしまいます。うーん、困ったもんだ。でも、その若者は、その後、主人公喜美子の最初の「師」とも呼べるような存在になります。

助けられた若者、草間さんは、東京弁を話すしゅっとしたお兄さん。奔放で豪快なきみちゃんに、柔道などを通じて、人の道とは何か、礼節とは何かを教えます。そして、その礼節は、15歳で大阪に女中奉公に出されたとき、喜美子の存在を多いに助けます。厳しい先輩女中に一目置かれ、その大変な「しごき」にも耐える力を、草間はもたらします。ドラマではそれに「草間流柔道」という言葉を与えています。とやあ!

自分(や家族)の利益を度外視した人助けというと聞こえはいいけど、しょせん酒まみれのクソ男のプライド…。そんなことで、家族までを犠牲にするのか!と、どこまでいっても擁護できない、非合理的な行動です(私なら絶対にとらないです、恥ずかしながら、とれない)。でも、誰もがどこか心のなかに持っている「損得をこえ、他者のために生きることこそ人の道」という感覚。これを常治が実行に移すことで、またも主人公の道が開かれているのです。

3つ目。常治は、信楽でも損得をこえた(でも家族をつらい目にあわせるような)人助けをします。みずからも生活が厳しいなか、貧しい家の2人の青年兄弟を雇い、仕事の手伝いをさせるのです。これまた非合理的な行動。その結果、食い詰めた2人の青年兄弟は、恩を仇で返すように、ある日、家を荒らし、大阪でつらいしごきに耐えて得た給料をも盗み、行方をくらましてしまうのです。結局、2人の兄弟(犯人)は、捕まることなく、家はさらに貧困にあえぐことになります。

これに関しては、前の2つと違い、ただただ家族を、とくに長女である喜美子を、困らせるだけの酷い結果となりました。しかし、それだけに、「お人好しの世界=社会を底から支える原理」が、常治たちのような人間にとって、のっぴきならない行為規範であることを痛切に印象付けるエピソードでもありました。少なくとも、盗人になった兄弟には、罪科を背負うことと引きかえに、なけなしのお金が入ったことになります。

また、この事件のあと、常治が娘に無心しに大阪に訪れるのですが、期せずして、女中先輩の大久保さんの人間性の深さが示されます。状況を察した大久保は、喜美子に理不尽なように押し付けた内職の賃金を、さっと取り出してみせて、喜美子に渡すのです(→この後、「3年は帰らん!」「帰ってくんな!」→「ただいま戻りました!」→大久保の横顔というシークエンスは、間違いなくこのドラマの神シーンのひとつです)。この大久保の行動は、大阪のような都会にも、「社会の底を支える原理=お人好しの世界」が存在していることを示しています。ただそれは、信楽よりも都会的に少し「洗練」された形、内職の対価というクールな交換関係という体裁がとられているところが面白いところです。

大久保

* * *

さて、この常治や彼が連れてくる人びとの織り成す世界。お人好したちの世界。

それは、どうしようもない、クズでクソなおやじども中心の世界でもあります。おやじどもは、外にいいかっこして、妻や子供は、自分の所有物のようにして扱う。しかも、妻たちがそれを共依存的に支えてしまう地獄。でも、女も子どもも、おやじも、どうにかこうにか食い扶持を分け合いながら、見知らぬ他者をもそこに招き入れながら、それを当たり前のことだと思いながら、暮らしている。

かつてもいまも毒親の居場所はどこにもなく、その「毒」は、もちろん解毒されるか、排除されるしかありません。というか、かつてもいまも、そうある「べき」です。

しかし、社会の底を支えてきた「お人好したちの世界」は、その毒をはらみながらも、確実に社会の底を支えて続けてきた。これまた事実なのでしょう。

大野とじょーじ

そんなシーンの数々を目の当たりした私たちは、ときに反感を覚えながらも魅了され、魅了されつつ反発します。SNSにあふれる常治への反感、批判、罵倒は、そんなアンビバレンツの所在をこれでもかと示しています。たぶん、そんな「お人好しの世界」に生きたいと思っても、生きられないから、生きたくないと思っても、生きようとしてしまうから…

この点、大野演じるマギーさんは、インタビューで大野についてこう語っています。

 現代の特に都会の人たちって、隣人をお世話するとか世話になった人の近くで恩を返すという気持ちを失ったわけじゃないけど、なかなかそれを発動する機会がなくなってきてると思うんです。
 でもオウちゃんは、そういう誰しもの中にある気持ちを発動しまくってるおじさん(笑)。だから特別「人がいい」ってわけじゃないと思うんですよね。人のお世話したり、隣人のことが気になって、一緒に泣いたり笑ったりする…。そういうテンションはみんなと同じぐらいだけど、その気持ちを発動する機会が大いにあるっていう、そういう人なんだろうなって思います。
 特別な人というより、あの時代に生きた「ある普通にいた人」、そんな印象を受けています。誰しもの家の隣にいた、にぎやかでおせっかいなおじさん。文房具屋のおじさんです。
引用:「マギー、北村一輝との掛け合いはまるで漫才!「関西のノリが楽しくてアドリブも多い現場」<スカーレット>」

普通にいた人。それは、大野のみならず、妻の陽子も、そして常治も、同様だろうと思います。多くの「普通にいた人」たちが、ドラマの信楽において、そしておそらく実際の社会においても、そのような世界を作りだす「機能」を担っていたのでしょう。

このドラマは、この世界を、決して、過度に美化したり、ロマンチックに描くことはありません。毒の酷さはこれでもかというくらいに酷く描きつつ、でも毒とは区別されるべきこの「機能」を担うことは、庶民にとって当たり前の「人の生きる道であったんだ」ということを、つらく、哀しく、愛らしく、明るく、力強く、一歩いっぽ進んでいく喜美子の周辺に、すっと置いていくように描くのです。

そこがこのドラマの素晴らしいところだと思います。

* * *

さて、火鉢生産が左前となり、まちの経済を支える丸熊陶業の経営者が交替、いよいよ近代的で計算づくの世界が信楽を巻き込んでいきます。「自分らしく生きる」道を探し当てた主人公喜美子に対して、妻にも優しい合理的で近代的な新経営者敏春は「別のうちの会社にしがみつかなくてもええですよ」とクールに語り、他方で、非近代的・非合理主義者の象徴、クソおやじ常治は「そんなやつは、この家から出て行ってくれ」とホットに言い放ちます。

近代的な価値観、世界が、前近代的なものを駆逐していく過程のなか、自分の人生を生きようとする女は、新旧の世界、どちらからも見放されてしまうのでしょうか…

これから喜美子は、どのような道をつかみとっていくのでしょうか。
燃える緋色の炎は、私たちにどのような道を指し示すのでしょうか。

神ドラマ『スカーレット』に、ますます目が離せません。


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