見出し画像

アイドルと付き合う、ということ

こりゃまた、釣り的なタイトルとなっておりますね…すんませんなあ、というわけでover35の永遠のチェリーボーイ、パンチャです。

さて、SHINeeがいよいよカムバックということで、非常にわくわくしております。とはいえ、あまりいろいろと事前情報を見ないようにしていて、基本的には湖のふもとで猫と静かに暮らしています(矢野顕子的イメージ)。

最近、下記のブログを興味深く拝読しています。米国に住まいながら現代思想、人文知を駆使しつつ(「東方神起」の「構造分析」などは、お茶の子さいさいという感じ)、トンペンとして「in」しつつも、自らも含めてアイドルという現象を俯瞰する筆致に、心地よい知的興奮を感じております。

Stigma 2016-アイドルの終わり--夢のみとりz
http://ravensk.hatenablog.com/entry/2016/07/04/063706

直接リンクを貼らせていただいた記事は、東方神起をひとつの軸としながらアイドルという現象について考察を重ねてきた著者が、JYJユチョンの事件や、SMAPの解散劇を契機としつつ、「ヘテロロマンティックラブ」の物語と「家父長制」のシステムにからめとられた(東アジア的な)「アイドルの解体」を宣言するという、かなり刺激的な内容です。

では、自分はどうか?と、私自身のいまのKドルとの「つきあい」(←「ソルヒョンなら今朝まで俺の腕枕で寝てたけど?byじこ」的なそれ、ではないですもちろん)について少し考えてしまいました。

このことを、われらがしゃいにのカムバックにからめて、以下ちょっとだけ雑文を。

自分の以前のブログ記事で、前回のカムバックのまとめとしてSHINeeのポストアイドル的な側面を強調しました。それは、通常アイドルというものが「偶像への耽溺、没入による現実逃避」として機能しているのに対して、SHINeeが耽溺からの懐疑とか覚醒的な要素をはらんでいる、という見立てです。

 SHINeeの覚醒力とポストアイドル:リパケ活動をおえて
パンチャ男とドゥグン女のKな生活

でも実際のところ、そうやってSHINeeを持ち上げるほど、シャヲルとしての自分は「やっぱりすごい!」と耽溺、没入の度合いを高めていくわけで、結局は前に書いた上記ブログ記事なども「偶像への耽溺、没入による現実逃避」の機能を高めるためのアペタイザーに過ぎなくなってしまうのです。

どこまでいっても、5人はアイドル、なわけです(註1)。

SHINeeは、彼ら特有の個人主義的な雰囲気など、トンほどは「ヘテロロマンティックラブの物語と家父長制のシステム」へのはまり具合はよくないと思います。しかし、本人やファンにまとわりつく「優等生」的で「大人しい」イメージは、堅実な生活実践を貫くことで結果として資本制的な市場=世界を繁栄させていく中産階級的市民のイメージと重なります。そこには、学歴主義から官僚主義へとつらなる規律権力の貫徹があるわけで、必然的にヘテロロマンティックラブや家父長制の香りがふんわりと(しかし確実に)漂っています。

また、最近は少し鈍化したとはいえ、日本の「少年ジャンプ」を連想させるような、一時期の「ここまで強くなるのか!」という超人ぶりなどは、まさに「少年」にだけ許された成長の物語の具現といえるでしょう。トンのような「王座」が約束されていない分、韓国的な「無限上昇」の観念にもよりフィットしています。ここでは直接的な家父長的なイメージは弱められているものの、「荒波=市場」を克服していくオデッセウス的な神話性を見て取ることはできます。最近は肉体的なそれではなく、各方面での文科系的(作曲、ファッション、ダンス、歌唱等々…)な側面が強くなっていますが、同じ構造上の話しだろうと思います。

私の場合、ヘテロセクシャルなアイデンティティを持ちつつ、男性アイドルそのものを「愛でる」ということによって、ヘテロロマンティックラブの物語の「解体」とまではいかなくとも「ゆさぶり」に掉さすことが可能かもしれないのですが、結局は本記事にしても、「米国ドラマによくでてくる女性主人公のゲイの友達」的な意味にからめとられるのが関の山かなとも思ったりもしています(註2)。

さらにいえば、私自身も放っておけば、男性アイドルよりも、女性アイドル、それもより「若いの」を目が追っていくのをOMGのアリンなんかが画面に映るにつけ日常的に実感していますし(おっさん、ガチ真正ですやん…それ…)、他方で、アイドルというコンテンツはどこまでも「複雑な苦味よりも単純な甘味」の中毒物であり、どこまでも「覚醒よりも耽溺」のモードを煽る商品なんだよなあ、と痛感することが最近は多くなっています。

そんなこんなで、「アイドルとの付き合い方」についてふと考え込んでしまう今日この頃、というわけです。ちょっと醒めている…のかもしれません。

…閑話休題…(BGM 松田聖子「蒼いフォトグラフ」)

さて、それはそうと、SHINeeの新作、本当に楽しみです♪(←どの口でいっとんのじゃ!)それぞれのメンバーの心技体が充実しつつあるなか、どっかんどっかん市場を席捲するようなイメージではなく(註3)、着実にK-POPアイドル歌謡の世界を豊かにしてくれるような、そんな活躍が自分としては理想かな、と思っているところです。

なんだかすっかりとっ散らかってしまいましたが、この記事を、おぬの足首にそっとふれ、おぬを指先から全身で感じたいすべてのover35のおぬぺんに捧げて、筆をおきます。

はあ…おぬってやらしぃ…

註1:これは、アイドルのもうひとつの姿、資本制下の文化産業における「理想的な消費財」という側面を表しているていると思います。アイドルビジネスが、「その都度のパフォーマンスの良し悪しをこえて、支払い続ける、という選択を安定的にもたらす」ビジネスモデルである点は、非常に重要です(よって「アイドルの能力・実力への懐疑」という事態は、システム構成上不可避と言えます)。

註2:もちろん、ヘテロなのにゲイと思われるのがイヤだ、などという話しではありません。
 ジェンダー問題の核心に「「ミューズ」的な言説に象徴される非対称的・一方向的な女性のモノ化」があるとして、例えば「ヘテロ女性が女性アイドルを愛でる」という事態にもそのような構造を見て取れるのは確かなのですが、失われた4つ目の象限としての「ヘテロ男性が男性アイドルを愛でる」(身体へのセクシャルなまなざしを含む)という所作を現実社会に挿入することには、この構造的問題をこえるためのささやかな実践的意義があるのではないか、と考えています。実際、少しでも多くのヘテロの男性がふつうの感覚として「おぬえろい…」とかつぶやけるようになるだけでも、フォビアとかセクシズムの悪魔払いに実用的な効果があると思うのです。
 ただし、これは「非対称的・一方的なモノ化」を避けて「双方向的なモノ化」を推進するというものであり、「主体のモノ化」そのものを不問に付しているという問題が残ります。この点については、「一定程度のモノ化」は許容されるべきだろう、という発想を私はもっているのですが、「どの程度が許容範囲か」については、まだ考えが進んでいません。

註3:しゃいにはもともと、そうした華やかな「売れっ子」状況からはやや遠い存在であり続けていますが…。私がはまりはじめた2013年などは、大車輪の活躍でありながら、同時にEXOのバカ売れ年でもあり、しゃいには活躍する余地が狭められているなかで「売れる売れないにかかわらず、ただひたむきに努力し続けている」という印象が強くありました。
 今回この文章をかいていて、ふとM.Weberの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出してしまいました。そう、SHINeeは、与えられた天職に無私の姿勢でこつこつと従事することで、逆説的に私的な欲望にまみれた資本制社会を加速させていく、「善き新教徒(プロテスタント)」の姿がみごとにあてはまります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?